『ことばの用法』
白に近いグレーの不特定の形の各所に canon、corps de femme、arbre の文字が記されている。背景はレンガと深緑のベタ。
これが『ことばの用法』であるという画の条件である。
・・・、そもそも言葉とは何だったのか。
伝達手段である言葉は、物や状態世界を代弁するツールである。
つまり、そのものの形態、状態・色彩・動向 etc 、視覚をはじめとして五感(あるいは六感)すべての翻訳機能を備えたツールということである。
canonといえばcanonを想定する、その人の持ちうる限りのデーターにより形成されたイメージと結びつけられる。
しかし、canonという文字の意味を知らない場合、それは何ら意味のない線描としか映らない。
背景のレンガは、レンガを知っている領域の人には文字で示すまでもなく通じる画である。
深緑という彩色においては、見る物の内的イメージに広がりはあるが、誰でも自由な想定を抱くことが可能である。
深緑(彩色)>レンガ>言葉ということになるが、言葉にはcanon(大砲)ほどの威力があり、arbe(木)や corps de femme (女の身体)など自然や人類を制御・崩壊させる力を含有している。
言葉>レンガ・深緑の図式への変更はたやすいかもしれない。
『ことばの用法』はかくも意味と無意味の領域に鎮座するものである。そして、言葉なしに人は生きることが困難であり世界の親交・交易は滞ってしまう。
言葉は、carps de femme や arbe のような生物の連鎖(憧憬・欲望・自然)をつなぐ不可欠なツールであると同時にcanon(大砲)のような破壊力をも潜ませている。用法を配慮するのは、鑑賞者である画の前のわたしたちである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮かべるだけが浮ばうとかたまって船の沈むのを待ってゐました。
☆千(たくさん)の陳(言葉を並べ)試しに書いている。
語(ことば)を図り、字に任せている。
包んでいるのは、遍く訃(死の通知)であり、潜(ひそんでいる)のは、珍(普通と違っている)他意である。
父親は、早くスープがほしくて矢も盾もたまらず、からだが不自由なのを押して、スプーンでスープをすすろうとしたかとおもうと、こんどは皿からじかに飲もうとし、どちらもうまくいかないので、ぶうぶう腹をたてている。
スプーンは、口のところにとどくまえに、とっくに空になってしまっているし、スープ皿も、けっして口にはふれず、長く垂れさがった鼻下てしまい、しずくがこぼれたり、とび散ったりしている。
☆警告は少しも結果をなさなかったが、父(先祖/運命)は素晴らしい(成功)を熱望し、団体を守護した。理解は、口に上る前に空虚になり、警告も恐怖で決して触れられず、死の傍らで姿を消していたが、単に、ばかばかしくも光を放っていた。