『透視』
卵を見て成鳥を描くという図である。卵の中に鳥を見る、直視ではなく透視。
イメージ図は、卵から雛が孵りやがて成長になるというプロセスを知っているから描けるものである。
サイクル・循環における一刹那を生きており、その複合的な集合が社会であれば、存在物はそれぞれ異なる時間を生き、交錯しているわけである。
作品の中の画家は循環の情報を描いている。卵は過去であり、現在であり、未来である。鳥も然り。
その上、卵はテーブルから転げ落ちるかもしれない位置に置かれており、描かれた画布もイーゼルから浮いているし、少々前に傾いている。イーゼルの上部にあるべき留め具が見えない。要するに危機一髪の状態でもある。
背景は何もない、室内を想像するが、そうでないかもしれない。画家は椅子に座っているようだが、立っているのかもしれない。絵皿を持つ左手の指も奇妙ではないか…すべてが少しづつ不穏なのである。
この作品、あたかも画家が卵を透視して鳥を描いていることが主眼にみえるが、じつは鑑賞者の眼差しを試しているのではないか。超能力による画家の眼差しではなく、透かして画の矛盾を探る眼差しへの問いではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
(あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかったらうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、だれかが一生けんめいはたらいてゐる。
☆他意を解き表すのは、散(バラバラにする)の縷(連なる糸)のようである。
僕(わたくし)の回(まわる)章(文章)で、詮(明らかにする)。
帖(ノート)には、普く等(平等)の徴(前触れ)がある。
推しはかり、裂(バラバラに離)し、換(入れ替える)と、逸(隠した)章(文章)がある。
アマーリアだけは、ポンプのことなんか頓着せず、美しい晴れ着姿でそばに立ったままでいました。だれも、あの子には文句をつけようとはしませんでした。わたしも、幾度かそばに走り寄って、腕をとりましたが、アマーリアは、口もききません。
☆アマーリア(マリア/月/伝説)だけは皮肉も気にせず、美しい衣服で節操のある様子でした。あの子には、だれも、面と向かって言うものがありませんでいた。わたしも、幾つかの汚点の継続とその流れを理解しましたが、彼女は黙ったままでした。