息子たちは外遊びに呆け、暗くなるまで家に帰って来なかった。
ところが少子化のせいか、最近は子供の声をほとんど聞かない。
と思っていたら、隣のマンションの小さな女の子たちの声がにぎやかに聞こえるので、ちょっと耳を澄ましていると、おままごとをしているらしい。一人男の子が混じっていているけど、同化している感じ。だけど、
「男の子でしょう、しっかりしなさい!」なんて女の子から檄を飛ばされている。
切れ切れに聞こえてくる会話・・・。
「おくさ~ん、レシート」「いりませ~ん」なんて、母親の会話を真似している。
可愛いな、と思う。
「おばさん、わたしの名前知っている?」なんて聞いてくるので、首を傾げていると、
「あ、あ…んんん」なんてヒントをくれる。
就学した子に「一年生になっておめでとう」と言ったら、
「はい、ありがとうござます」って、しっかり。
フレーフレー、新一年生。日本の未来をよろしくネ。
『永遠の明証』
裸婦を縦に五体に切り離し、それぞれフレームに収めて順次そのように縦列して壁にかけて在る。
なぜ裸婦そのものではなく、このような策をとり、『永遠の明証』と題したのか。
フレームに収めるということは、一つの表象である。このイメージを心に深く認識するということである。
女の肉体に対する欲望は肉体そのものということよりも、頭に描くイメージ、脳内の刺激によって起きる観念的なものではないか。
《彼女を愛している》ゆえに…というプロセスを踏む性的欲求の否定でもある。
象徴される各部の誘因(誘惑)は、肉体に潜む魔性であって、論理的なものではない。ゆえに異性に対する欲求はトータルな人間像への敬愛とは隔たったものではないかという疑問である。
性愛は一個の人格を外したイメージへの傾倒ではないか。情念は理性によって表象されうる。肉体の各部を切り離すことで覚醒する理性。
即ち『永遠の明証』である。
船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。
☆千(たくさん)の現れるSun(太陽)が溢れている景(景色)。
陳(列をなして並ぶ)は、尽きること無く、妙(奥深くて計り知れない)浄(けがれのない)の真(まこと)でした。
わたしは、あの子の勝利のまえに頭を下げたのです。そして、この子にはだれだって頭を下げるにちがいない、とおもいました。もしかしたら、あのときわたしたちは、あの子がふだんとはまるで別人のように見えることに面くらったのかもしれません。
☆わたしたちは、並べて彼女の勝利に屈服させられたのです。誰もみな屈服せざるを得ないと考えました。ひょっとしたら、わたしたちは当時彼女が異なるものに見えたのかもしれません。