ああしよう、こうもしようと考える。けれど、ふっと気づくと時間の方がわたしを先回りして過ぎていくので、わたしはその後ろを見送るしかない。
すなわち、諦念である。
願望がことごとく欠落していく喪失感に苛まれていくうちはいいけれど、次第に鈍感になり、どうでもいいと自嘲する。そして何も感じなくなってしまう。
この怠情が怖い。
(このまま死んでいくの?)
「死ぬ前に何がしたい?」と、神が聞く。
(・・・)具体案など皆無であることに気づく。
どうせ・・・、どうせ何?
マイナスのスパイラルに堕ちていく。
今日できること、大切なのは当たり前の日常である。スムーズに終始が合えば、それが幸福というものではないかと思う。
それが一番困難な闘いであり、平和と称するものである。
怠けていられる日常を甘受している。
『深淵の花』
非常に深いところ、非常に危険な事態に直面しうるところの花であるという。
馬の鈴が象徴するものは、言葉(主張・噂・伝説 etc)である。
言葉は魔法であり、イメージを喚起させる手段でもある。人の心の深層に潜む信念は曖昧模糊としているが、その深みの中で具象化しうる手段は言葉をおいてほかにない。
言葉は言葉に触発され確信を強めていく。人はその深淵を抱き持っているが、見ることは叶わないから、その確信が真理か否かを図る手段を持てない。
『深淵の花』が沈黙を守っている限りは何事も起こらない。しかし、その花(言葉)には、危険な要素が常に含まれている。
戦争は深淵の花(言葉)によって勃発し、平和もまた深淵の花(言葉)によってもたらされる。
深淵の花は、人類の思いに匹敵する。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さい人たちを乗せて下さいと叫びました。
☆千(たくさん)の陳(言葉を並べること)を試みると、必ず詞(言葉)は、照(あまねく光が当たる=平等)認める。
常に果(結末)は教(仏のおしえ)である。
は、わたしたちの頭のうえを通りこしていってしまうので、こちらは、おもわず文字どおりあの子のまえに頭を下げるような格好になってしまうのです。もんなが、そのことに気づきました。わたしたちを迎えにきてくださったラーゼマンとその奥さんも、そうでしたわ」
「ラーゼマンですって」「ええ、ラーゼマンです」と、オルガは答えた。
☆非常な高みへと行ってしまい、人は思わず彼女に頭を下げるようになったのです。みんながそれを認めました。わたしたちを迎えに来たラーゼマン(読む人)もそうでした。
「読む人ですって?」「ええ、読む人です」と、オルガ(機関/仲介)は答えた。