JR戸塚駅から柏尾川プロムナードの満開の桜並木を愉しんだ昨日の『歩こう会』
とくに凄かったのは、田谷の洞窟(瑜伽洞)!!
一キロもの長さの人工の洞窟は、定泉寺(1532年)にありますが、瑜伽洞の歴史は古墳時代の横穴式住居跡だとも伝わっている由。(真言密教の修行場として開鏧されたのが直接の起源)
ロウソクの明かりを頼りに巡った洞窟内、行者の手により刻まれた羅漢や阿吽の獅子~各所の本尊、曼荼羅・・・等々すごい数の彫り物。
圧巻の光景が密やかにも山の中の洞穴に在ったなんて絶句!!
全国八十八か所・四国西国坂東秩父/総拝霊場とある田谷の洞窟、まさに然りの驚愕。
十キロ程度の行程、何とか歩きとおしてJR大船駅へ。
メンバーの皆さま、本当にありがとうございました。
『新聞を読む男』
画面は四つに分割されていて、その一つに新聞を読む男が描かれているが、ほかの三面には男の姿はない。四つの画面は等しく同じ部屋・同じ設えである。
『新聞を読む男』と題されている通り、新聞を読む男が確かに描かれている。しかし、ほかの画面に男が描かれていないことにより、奇妙な不在感が生じるのである。
不在の部屋を更に多く連ねても、たった一画面の新聞を読む男が印象付けられるのではないか。
酷似・反復の連鎖において鑑賞者は差異を探す、探さざるを得ない心境に追い込まれるといってもいい。
同じに見えるということは、同じでない部分を探すことに等しい。
結果、堂々と『新聞を読む男』という差異を提示し、言葉により、お知らせまでしている。
しかし、どこかに違和感が残る。
新聞を読む男は相似の空間に必然的に存在しなくてはならないという呪縛が潜在意識に生じているからである。
新聞を読む男の欠落、不在は鑑賞者の精神(イメージ)を混乱させる。
『新聞を読む男』は、存在と不在の揺れの反復を鑑賞者に突き付けている。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」
「えゝ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派な川、ね、あすこはあの夏中、ツヰンクル、ツヰンクル、りとる、すた をうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えてゐたでせう。あそこですよ。ね、きれいでせう、あんなに光ってゐます。」
☆僕(わたくし)の千(たくさん)の帖(ノート)の律(きまり)を把(つかむ)と、千(たくさん)の化(形、性質を変えて別のものになる)の、自由な双(ふたつ)が迫り、現れる講(はなし)である。
ソルティーニは、すこし消防問題にもたずさわっているとかで、ポンプの引渡しに立ち会ったのです(しかし、もしかするとただ代理で来ただけだったのかもしれません。お役人たちは、たいてい代理をし合っています。だから、ひとりひとりの役人の管轄事項がよくつかめないんです)。
☆ソルティーニは、すこし砲撃の抵抗問題にも関わった人ですが、もしかすると単にそう主張しただけで、大ていの役人の主張は相互に入れ替わり、それゆえに権限の範囲が重くなる。これがあの世の役人の認識かもしれません。