商店街まで出かけたら、最近まで近所に住んでいたAさんにばったり。
「元気でしたか、今、何しているの?」と聞くと、
「無職です。でも、もうすぐ社会復帰できるかもしれません」という。
五十くらいになったのだろうか、若さは失せているが十分働き盛りに見える男の態である。
「実は、自動車事故に遭いましてね」
「ずっと前でしょう」
「ええ、でもその後遺症が出ているんです。頭痛が・・・。事故の相手に逃げられましてね」という。
以前、「自分は事故に遭い、仕事を失ったが800万円ほど賠償金が出るので、それを交渉している最中です」と聞いていたが、どこも何ともなさそうだと思っていたら、
「首です、首が痛くてたまらないのですが、医者が思うような診断をしてくれないので困っているんです」という。
そのうちに、母親が亡くなり、独り身のAさんは生活保護を訴えるようになった。いくつかの仕事を紹介されたりしたが、結局うまくいかず、その借家からも退去し今に至っている。
「あなたの家は、もともと立派な老舗でしょう。もっと誇りを持って頑張りなさいよ」と励ますと、
「老舗って言ったって、分家ですから意味ないですよ」という。
かつて親類からも借金をしていて、これが尽きたら云々と語っていたことがあった。
「僕には特殊な技術があるんですよ。」と、延々。「この技術を後世に伝える義務があると思うんですがね」という。
高級木材を歪めさせずに乾燥させる方法ということだった。
彼はどんな風に食いつないでいるのだろうか。
彼も哀れだけれど、聞いているわたしも悲しみがズシンと肩に被さるのを感じた。
雑踏の中に消えたAさんに、もう会うことはないかもしれない。
『絶対の探求』
絶対とはそもそも何であったのか。他と比べるものがないこと(対立を超えたもの)、何の制約も受けないこと。肯定あるいは否定の強調。
葉の形に葉脈だけを残した樹、山の端に沈む太陽、そして低い地平線と高い空。
葉脈と見えるものは絶対に葉脈ではありえず、絶対に根毛である。
非常に大きな巨木であるはずなのに、透けて見える一枚の葉という印象から、はかないとさえ錯覚してしまう。
樹の枝葉と思えるものが、平面状で向こうが透けて見える一枚の葉の形をなし、しかも、凝視すると、それすら虚偽であることが判明する。幾重にも重ねられた非現実の空疎。
ここにある絶対の真実、無条件に肯定できうるものとしての太陽、動かしがたい宇宙の真理に立ち向かう絶対はあるだろうか。
『絶対の探求』は一に太陽であり、立ち向かう絶対があるとすれば、太陽の絶対的な否定ではないか。
太陽の光を絶対に受けることのない樹の根毛を高らかに掲げること、これは死を意味する。
『絶対の探求』、突き詰める先に見えるのは『死という絶対』に他ならないという仄めかしである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
そこらから小さな祈りの声が聞こえジョバンニもカンパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思ひ出して眼が熱くなりました。
☆償(つぐない)の傷(かなしみ)に悶(もだえ苦しむ)某(なにがし)の死を推しはかる。
厳(おごそか)に熱(意気込む)。
だれがなんとと言って反対したり、引きとめようとしても、馬耳東風でした。ポンプの下になにか見るものがあると、わたしたちは、身をかがめたり、ほとんどはいつくばってポンプの下にもぐりこんだりさせられました。バルナバスは、それをいやがったので、罰に横っ面を張られました。
☆再び話すことも許されず、引き留めることも改めることもしませんでした。辛辣(皮肉な話)を見分しても、すべてに屈しなければなりませんでした。バルナバス(生死の転換点)は、それを阻止したので強打されました。