『ロゴスドン』の投稿テーマは『実証主義とは何か』だった。
辞書を引くと「いっさいの思弁を排し、認識を経験的事実にだけ限る立場。また経験によって検証されない命題は無意味とする立場」とある。
これって、わたしのような不勉強なものが唯一手段として用いている立場ではないか。
考えれば考えるほど、わたしはこのような手法で単に書き散らしているだけであることを告白するようなものに思えて、どうしても自身に帰してしまうことから逃れられなかった。
その挙句、実証主義の本当の意味を知らずに、見当違いなことを書き失笑を買うだけではないかという不安が募り、締め切り近くになっても書くことが出来ない。
『ロゴスドン』への投稿は52歳から17年間一度も外したことはなかったのに、今回だけは迷った末、初めてパスさせていただきました。
宮本明浩先生、ごめんなさい。劣等生ですが、宮本学級のビリ婆として付いていきたいと思っていますので、見捨てないでください。
『空気の平原』
空気に平原なんて表現があるだろうか。見えないものであり、どんな凹凸をも囲む流体である。
不穏な空を背景に肥大化した一葉が、岩だらけの荒地にあたかも樹のように立っている。この一葉は背後から光を受けている、逆光というわけだけれど、太陽の位置が雲に被われているせいもあって不確定である。この一葉は太陽を隠しているのかもしれない。
全体、条理を逸した光景である。
草木の一つも見えない荒地、遠景の山々にも緑(植物)の気配を感じない漠とした風景に突如出現したとしか思われない肥大化した一葉の擬樹化(?)
構成、成り立ちから言ってあり得ない暴挙である。
というより、この作品の場合、タイトルの暴挙ではないか。
ありそうで、絶対に無い『空気の平原』
鑑賞者は空気の平原を肯定的に探し、無いことに行き着く。この否定は作品全体に及ぶ。
あり得ない設定、状況を在るとして描く。タイトルも共犯である。
自然の条理の虚を衝くこの作品は、《絶対的な真理の証明》を含有している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ぼくはそのひとにほんたあうに気の毒でそしてすまないやうな気がする。ぼくはそのひとのさいはひのためにいったいどうしたらいゝのだらう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまひました。
☆記(書いていること)は独(わたくし一人)の祈りである。
趣(考え)を推しはかる個(一つ一つ)がある。
私は、どうしてそういうことになったのか、いまで桿も納得できないでいるのですが、とにかく長いあいだ消防ポンプのまえに立っていて、やっとのことで父がポンプのそばから離れたときに、ソルティーニがいうことに気がついたのでした。あきらかに、さっきからずっとポンプのうしろの槓桿にもたれかかっておられたのです。
☆わたしはどうしてそうなったのか、今でも説明できないでいるのですが、とにかく長いあいだ精神的な高みの前で、祖先が自由になったときソルティーニがあることに気づいたのでした。
明らかにずっと精神的な梃子の点に傾いていたのです。