これだけは!と、孫を夫に頼んで出かけた講座。
何も準備ができてなくて…、と思ったらいきなり机上に用意された二枚の画用紙で自分の似顔絵と自分の好きなことを描て下さいとの指令。
みんなそれぞれの趣味を描き込んで一人づつの紹介時には《なるほど》と深く納得。
一緒に並んだグループの人(えっ、新体操をやってたの、スゴイわ)って感じの二人と、もう一人の美人は明日には小学校で紙芝居の実演をなさるとか・・・。
とにかく楽しくワイワイ。
で、自分が年取っていることを改めて実感。(わたしここにいていいの?)
できる限りは、やれる限りは《年を忘れて》みんなに付いていくつもり。
それぞれいろいろな場所で語り聞かせを経験していたり、絵本をつくるサークルに在籍していたりの強者揃い…やって行かれるかなぁ(不安)
片岡先生「かたぴーと呼んでください」って、恐れ多いけど。
よろしく、ご教授ください。
繰り返される凡々とした日常に、ある日一本の電話が入る。
「流行感冒のため学級閉鎖になって、学童もお休みだから、そっちへ行ってもいいかな?」
もちろんOKであり、息子たちの困惑を考えれば、そう答えざるを得ない。
月曜日から昨日土曜日まで、息子と孫の到来。
わたしの気ままな日常と孫をはかりにかければ、孫が重い。ブログなどもっての外、一日中目を離さず孫を見ていた。
こんな時でもなければ、孫と過ごせるチャンスはない。宿題をしたり、ゲームをしたりで面倒なことは一つもないけど、朝から晩まで気忙しい。
優先順位一番の孫の到来、今朝はどこか気だるく風邪気味のダウン状態。
何にもできなかったけど、チクチク…ドングリの笠を利用してネックレスと古布で作ったブローチ。
『来て良し、帰って良し』は名言かも…。すっかり年老いたことを実感している疲労困憊の今朝のわたし。
『世紀の伝説』
地平線が画面のずっと下方にあるということは人間の目線を暗示しており、人間の位置・大きさを決定するものである。
つまり、この石造りの椅子の途方もない巨大さを描いていおり、その上の小さな椅子は人間の体躯に等しい者の座る椅子という設定である。
これほどの巨石を建造することは不可能である。第一、巨大な石の存在がないし、直線に切断する技術も考えられない。
要するに考えられない巨大な椅子であり、その上に鎮座する椅子の存在は人間の視覚には入らない高さにある。
物理的には想像を絶するが、精神的には十分許容できる高さである。
『世紀』とはキリスト誕生の年を原点とし、100年単位で区切った区切りである。なるほど偉大で強固な伝説、揺るぎなく受け入れられ、世界的な呼称として通じている『世紀』。
これは正しく『世紀の伝説』である。
しかし、いつか風化し、青空の下に形骸化し果てる日が来るに違いない。地球の億年の歴史、億年の未来の果ての景色における『世紀の伝説』の想像図である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
二人は鉄砲をはづし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。
☆字の図りごとを徹(つらぬき)法(神仏の教え)である他意の秘(奥深くて計り知れない)を開く。
題(テーマ)の照(あまねく光が当たる=平等)に到(いたらせる)。
つまり、わたしたちをあらゆる集団からしめだしてしまったのです。こうなると、わたしたちのことを話すときでも、もはや人間なみには扱ってくれません。わたしたちの姓も、呼んでもらえなくなりました。わたしたちの話をするときは、わたしたちのなかでいちばん罪のないバルナバスの名前をもとにしてわたしたちのことを呼ぶのです。
☆w人間から外して話すのです。もはや一族の名前も読んでもらえません。わたしたちと話さねばならないときは無のようなバルナバス(北極星)を通して呼ぶのです。