続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

うつら、うつらしていた。

2017-02-20 07:20:39 | 日常

 昨日は疲弊し、くしゃみと鼻水が止まらない一日だった。
 けれど、今後の予定を鑑み《風邪をひくことは断じてならぬ》とばかり、風邪薬を規定通りに朝昼晩と服用。そして、一日中うつらうつらと朦朧状態。

 切羽詰まった急用もない日曜日…ひたすらボンヤリと時間をやり過ごしていた。

 浦賀の義姉が取れたてのワカメと茎ワカメを持ってきてくれたので湯通したくらいが仕事といえば仕事。
 何にもしない一日。

 思えば、わたしのしていることなどみんないずれ霧消していく。
 そういう前提で励んでいる。だから何もする必要はないのだけれど、なにかせずにはいられない。そういう滑稽さがわたし自身なのかもしれない。

 とりあえず洗濯物を干し、朝食後はラジオ体操に行く。


マグリット『誓言』

2017-02-20 06:37:36 | 美術ノート

 『誓言』

 水平線に沈みゆく落暉、石化した巨大なリンゴが岩石の集合に支えられ少し傾いて存在している光景。
 漠とした景である。

『誓言』は何に向かってなのか、あるいは誓言の果てなのだろうか。誓言といえば《永遠》を想起し、永久に変わらないことを条件とする。
 太陽の昇降は永遠の範疇に例えられる。しかし、それに対しリンゴに象徴される人類の生命/知恵は限りなく普遍的に永続進展していくものだろうか。

 宇宙の真理に対峙する人類の英知。
 人は希望を抱いて《永遠》を誓うが、物理的な永続の前では脆弱なつぶやきに過ぎないのではないか。

 リンゴの腐食し崩壊していく実態(現実)を、石化し形を留めさせたのは《イメージ》による図りごとであり、石化し傾いたリンゴを支え持ち上げているのは石化した霊魂である。

 地の果てまでも、石化し果てた後までも…永遠を紛うことなく貫く強固な信仰心。その立ちどころを失い形骸化した超未来の残影である。

「誓うべき永遠はあるか」の問いに対する答えでもある。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『城』2558。

2017-02-20 06:16:04 | カフカ覚書

わたしたちのこの粗末な家でさえ、文句をつけられました。正直なところ、あなただって、この家に初めて足をふみ入れたとき、人びとが軽蔑するのも無理はないとおもった、と白状なさるでしょう。


☆わたしたちは見張られ、悪評を立てられました。あなたも先祖の出現する信仰を認め、この軽蔑を正当と思うでしょう。