子供の成長には目を見張るものがある。
ついこの間まで幼児そのものだったのに、7歳になったキヨちゃんは、何のゲームなのか知らないけど、叱られることを怖れないほど熱中している。
それでもわたしが紙芝居をすると真剣なまなざしを向ける。紙芝居だから子供向けには違いないけど、幾つか実演した中でも再度の要求が『やまなし(宮沢賢治・原作)』だったりすると少々驚いてしまう。
それに、重ねて置いてある本から「これはマグリットと言うんでしょう」などと指差し、「見たいな」という。
見せてあげると静かにページを括り無言である。
おばあちゃん(わたし)の感覚が離れて暮らす孫に飛び火しているのだろうか(まさかね)。
それとも幼い子供にさえも、共鳴できる影響力が賢治やマグリットにあるのだろうか。
親ばかならぬ「婆ばか」・・・甘い夢の過った孫の到来でした。
『現実の感覚』
静かな里山、田園風景に浮かぶ巨大な岩石、その上空には二十六日あたりの月が南中している。
《非現実の光景》が『現実の感覚』であるという。
つまりは《心象風景》である。現実にはあり得ない景であるが、心象を具体化すればこのような現象になり、これこそが「内なる現実の感覚」であると。
重い巨石(不安・危惧の象徴)が常に心の内を動かし難く占めている。見えないはずの月(二十六日の月の南中は明け方は見えても真昼には太陽光によって見えない)を抱く不条理。
風景ではない、感覚である。見えないはずの感覚を具象化すればまさにこの泰然とした不条理極まる景こそが『現実の感覚』になる。心は常に現実(田園風景)から離脱・浮遊し、虚実の交錯した時空がわたくし(マグリット)の『現実の感覚』である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「はゝあ、何かの料理に電気をつかふと見えるね。金気のものはあぶない。ことに尖つたものはあぶないと斯う云ふんだらう。」
☆科(とが)ある霊(死者の魂)の裏(うちがわ)を伝える。
祈りを兼ねる魂の記は千(たくさん)の詞(ことば)で運(めぐらしている)。
わたしたちは、こんなふうにしてはこれ以上生きていくことができませんでした。まるっきり希望なしで生きていくことなんかできませんでしあ。そこで、どうかお赦しくださいと、めいめいがそれぞれのやりかたでお城に哀願したり、しっこく頼みこんだりしはじめました。
☆わたしたちは今後これ以上生きていくことが出来ませんでいた。完全に希望を失たのです。そこで、それぞれのやり方で赦してもらえるように、お城(推論・結末・死)に請願をし始めたのです。