『丘の眩惑』
ひとかけづつきれいにひかりながら
そらから雪はしづんでくる
電しんばしらの影の藍靛や
ぎらぎらの丘の照りかへし
☆『究める幻の惑い』
説(話)を伝えている。
鋭(すばやく)覧(よく見る)
転(物事が移り変わること)を究める章(文章)である。
平原というより、山頂であり、肥沃には程遠い荒地(岩地)である。しかし、緑は豊に生え聳えている。ただ、地平との繋がり、着地点は岩石の塊を除けばすべて不明である。
二体のビルボケ(擬人)も背後の衝立状のものも立地点を隠しているので、存在を確証する手立てがないのである。つまり浮遊している可能性もなくはないが、直立している景は重力下では、その地点に在るということに他ならない。
それにしても大樹をしのぐ二体の巨大さは通常の人の景ではない。世界を見下ろしていると言っても過言ではない。背後の波状の板に付着した馬の鈴(伝説・伝達・声…)の多さ大きさも二体を圧する響きを有している。(樹木の葉に比べれば一目瞭然)
折り畳んで刻みを入れられた板状のものはどこまでも連鎖・コピーを続ける人類の履歴(DNA)であるが、背後の波状の板に付着した馬の鈴(伝説・風評…)が、それを遥かに包み込んでいる。
要するに、物理的な自然や人類の歴史などよりも精神世界の方が強力な存在感を占めているということかも知れない。
これらの条件を総括すると、不条理なほどに人類の世界は膨張し、自然を見下ろしている。しかし、いずれ岩(地球)に還っていく。
『告知』は人類の誕生とともに、根拠なき成長を果たし、やがて地に還るという構図を描いたものではないかと推測する。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
どのこどもかが笛を吹いてゐる
それはわたしにはきこえない
けれどおたしかにふいている
(ぜんたい笛というものは
きまぐれなひよろひよろの酋長だ)
☆適(当てはまるもの)を推しはかる。
的(ねらい)を収める帖(書き物)である。
「それにもかかわらず」と、Kは言った。「ぼくは、助手どもを首にしたことを残念におもっていないね。きみがいま話してくれたような事情だったのなら、つまりだね、きみの貞節が助手どもがまだお勤めの身だったということだけを条件にしているものだったのなら、なにもかも終わりになってしまったのは、よいことだったと言えるよ。
☆「それにもかかわらず」と、Kは言った。わたしは助手たちを勤めから追い出したことを悔やんでないよ。
わたし達が記述した関係では、きみの誠実さもまた単に拘束された勤めだったからで、すべて、先祖の終わり(死)を考えてみることはいいことだと思うよ。