野はらのはてはシベリヤの天末
土耳古玉製玲瓏のつぎ目も光り
☆夜に展(繰り広げられる)罰の努めがある。
自(わたくし)は個(一つ一つ)を玉(美しい石)にと請(ねがう)。
霊(死者の魂)が、浪(彷徨っているのを)目(見ている)講(話)である。
この作品の主要な観点は何だろう。普通の景色であるが、画布に描かれた景色が画布によって隠された景色にぴったり重なっていると思わせる仕掛けが鑑賞者の眼差しを曇らせ、あるいは驚嘆の高揚を与える点にある。
隠された景色と隠した景色が一致するなどという偶然は万が一にも有り得ない。
偶然ではなく強引な作為である。
しかし、なぜか鑑賞者は、納得してしまう。道や木立、水平線までもが接点を一にしているからであり、(そうかも知れない)と脳はその錯視を受け入れてしまうという順応性を否定できない。
美しい噓(不正)をまことしやかに受け入れてしまう。詐欺まがいな絵に騙されてしまうという洗脳である。
《見る》という行為の曖昧さ、位置や角度のズレは距離間により大きく拡大する。本来シャッターを切るような固定もなく、また留まる視線などというものもない。
『美しい虜』は、見ることと見えることの検証である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
パート五 パート六
パート七
とびいろのはたけがゆるやかに傾斜して
すきとほる雨のつぶに洗はれてゐる
そのふもとに白い笠の農夫が立ち
つくづくとそらのくもを見あげ
こんどはゆつくりあるきだす
(まるで行きつかれたたび人だ)
☆死地
刑(罪をただして罰すること)や赦(罪や過ちを許すこと)などが有る。
迂(まわりくどい)詮(方法)だと吐く。
留まる悩みは、普く流(さまよう)。
験(証拠を確かめる)講(話)は、図りごとである。
ふたりは、だまりこんで、また肩をならべて歩きはじめたが、こんどはどちらから先に歩きだしたのかは、区別できなかった。Kに寄りそったフリーダは、彼がもう腕を組んでくれないことを怒っているようであった。
☆二人は黙って互いに並んで歩いていたが差異はなかった。今度はどちらからともなく(企て)を話しはじめた。フリーダ(平和)は再びKの哀れな(状況)に対し立腹しているようだった。