その盤面は青じろくて、ツルツル光って、いかにも舶来の上等らしく、どこでも見たことのないやうなものでした。
☆番(かわるがわる行い)綿(細く長く続く)講(話)であると、吐く。
雷(神なり)の照(あまねく光が当たる=平等)が透けて現れる。
《蛇のようにくねった長く続くらしい蝋燭 VS パイプに入った長く太い自身の鼻》
この二対の対峙である。
今も長く信仰され読み継がれている聖書の見解は指針である。しかし、わたしはそれに対し異議を抱いている。疑問は大きく膨らんではいるが、それを表に出すことはタブーに違いないし、平穏を望むわたしにとっては出来ない相談である。
物(世界)の見方、単にそれに尽きるかもしれない。
わたしはわたしの考えを内に秘めているが、時としてそれは作品に露呈するやもしれない、そう意図して描いているからである。
闇雲に抗っているわけではない、深い感銘(肯定)の後の否定である。
しかし、わたしはそれを語ることはない。
哲学者としての逡巡、いつかこのパイプから自身の見解が破裂をきたすかもしれない。
「これはパイプではない」のだから。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
から松の芽の緑玉髄
かけて行く雲のこつちの射手は
またもつたいらしく銃を構へる
☆照(あまねく光が当たる=平等)を我(わたくし)は録している。
霊(タマ/死者の魂)の髄(中心・要)の講(話)を運(めぐらせている)
赦(罪や過ちを許す)が主(中心)であり、自由な講(話)である。
もちろん、クラムの愛人としては、きみを尊敬できるとおもってる。そしてきみの部屋に住みこんで、一度ぐらいは小クラムの気分を味わってみるのも、たしかに悪い気持ちはしないにちがいあるまい。
☆氏族を自然に尊敬し、きみのテーマを心に期して、先祖の傷痕を先祖の氏族であるクラムを予感したのも確かに良いことだったに違いない。