あすこの農夫の合羽のはじが
どこかの風に鋭く截りとられて来たことは
一千八百十年代の
佐野喜の木版に相当する
☆納(受け入れるのは)普く劫(極めて長い時間)の話である。
普く影(姿)は、救いの雷(神なり)である。
逸(隠れて)遷(移りかわる)也。
飛躍は自由な念(考え)の題(テーマ)にあり、査(調べる)也。
記は黙して判(区別し)総てを問う。
『美しい虜』
・・・まことしやかな魅了。
《一本の大樹》と《相似(ぴったり重なる)するかの景色を描いた画布》が拮抗する構図の光景である。
大樹の存在に対し、画布に描かれた景色は画布に隠された景色に一致する存在だろうか。全く異なる景色が画布によって隠されているかもしれない。
しかし大樹も、これほどの大きさならば根幹は地面(下)に行くにしたがって太くなるはずであるのに同じ太さであるのは、違和感がある。
どちらも有りそうで無く、有るかもしれないという精神的な受容を許可するものである。
風景を切り取ったうえで、その風景にぴったり重ねる。現実にはあり得ない操作であるが、接線の一致によって鑑賞者を魅了させる。不条理を条理に錯視させる仕掛けがここにある。
要するに頭の中(精神/イメージ)では、受け入れられる光景なのである。
しかし物理的には困難というより不一致は必至の情景であり、有り得ない光景である。
このズレ、この深い断絶をあたかも解消し、あり得るがごとく描いた『美し虜』は、物理と心理の曖昧な揺れを同化させている。噓(イメージ)は実在の上に被る希求の真理かもしれない。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
みちがぐんぐんうしろから湧き
過ぎてきた方へたたんで行く
むら気な四本の桜も
記憶のやうにとほざかる
たのしい地球の気圏の春だ
みんなうたつたりはしつたり
はねあがつたりするがいい
☆記の詞(言葉)を、翻(作り変える)。
往(人が死ぬ)の祈りの臆(胸の内)を字で究める。
企てを験(調べ)、悛(あらためる)。
鞭がなくてはおとなしくしていないような二匹の猛獣どもに挟まれた結婚生活の幸福なんて、どうせたいしたものではなかったことだろう。そう考えると、やはりあの一家にお礼を言わなくてはならないようだ。そのつもりはなかったにせよ、ぼくたちを引きはなすのにひと役買ってくれたわけだからな」
☆鞭に屈従する脅迫された猛獣のような中での幸福なんて、たいしたことないだろう。だから、あの一族に感謝しなくてはならない。故意でないにせよ、わたし達を区別することに関与し貢献してくれたのだから。