俄かに戸があいて、赤い毛布でこさえたシャツを着た若い血色のいゝ男がはひって来ました。
みんなは一ぺんにそつちを見ました。
☆我(わたくし)の図りごとの釈(意味を明らかにする)。
亡(死)の訃(知らせ)を惹きつけ結びつけるという私記である。
談(話)には雷(神なり)が逸(隠れていて)現れる。
熟知している物に対する記憶は、脳内にイメージとして留まる。故に身体の各所が抜け落ちた各部位の設置を全体像として認識することが可能になる。むしろ自然であると言ってもいい。
《2・4・6・8・10》という数字の並びを見たとき、(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)を無意識理に思い浮かべるのではないか。欠けた部分を観念(経験からくる情報)が補う直感はごく普通のことである。
この普通と思われる感覚・・・頭部が欠けた顔の面を見て、だれも頭部がないとは考えない。フレームに納まりきれないというごく単純な答えを導き出す脳内の処理能力は考える猶予を与えることなく即断である。
対象を見る能力は、過去のデータの集積により瞬時に再構成を果たす。
『永遠の明証』を見て、バラバラなものとして認識する人はいないのではないか。バラバラに切り離されてはいるけれども、これは正しく一人の裸婦像である、と。
そう感受する、あるいはそう感受せざるを得ない眼差しの作用の《証明》である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
このひとはもう五十ぐらゐだ
(ちよつとお訊ぎ申しあんす
盛岡行ぎなん時だべす)
(三時だたべが)
ずゐぶん悲しい顔のひとだ
☆語(言葉)の自由、仁(人間)の真の逝(人の死)は、光である。
講(話)の記で赦(罪や過ちを許す)
示す太陽は、自(わたくし)の秘(人に見せないように隠した)信仰である。
つまり、きみはもう彼の主人であるぼくの許婚者ではなくなったから、いまでh以前のように彼の食指をそそらないのだ、とね。きみは、彼の幼友だちかもしれぬ。しかし、ぼくの見るところー
☆それ以来大群(大勢)の存在は広がり、以前のように迷わせることはなくなった。あなたは彼の子供の頃の友人かもしれない、しかし・・・。