日の出、日没・・・時間の継続。
時間を量として捉えると、やはり直線になるのだろうか。連鎖する量感。時間というより時空の触感、雰囲気、感覚的な受動。
測るれないものを図る行為である。不可視なものを可視化する仕事と換言してもいいかもしれない。
究極、存在は陵ばり、簡略化される。山(林や樹々)・川・海・建築物は並べて一つの連続した塊と化す。つまり時間の凝縮である。物理的に不可能なことも、精神界では答えは無限な広がりを許容する。
決定ではないが、創意である。具体的な答えを拒否するものかも知れない。
始まりも終わりもない線条は過去から未来への通過点であるし、それは一日の時間とも呼応する。一点は全体に通じ全体は一点に集約される。
切り取られた『日の出、日没』は、時空を超えて地上を俯瞰した図である。
写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館
という主人の言葉はあいそが有っても一体の風つきは極めて不愛嬌である。
主人はシュ・トと読んで、趣、図。
言葉はゲン・ヨウと読んで、現、要。
有ってもはユウと読んで、幽。
一体はイツ・タイと読んで、逸、他意。
風つきははフと読んで、普。
不愛嬌はブ・アイ・キョウと読んで、捕、相、胸。
☆趣(ねらい)の図りごとが現れる。要の幽(あの世/死者の世界)が逸(隠れている)。
他意は普く語句で捕らえる。
相(二つのもの)が胸(心の中)にある。
短気を起している役人は、なだめようとすると、しばしばよけいにぷりぷりしてしまって、もう従僕のお世辞など耳に入れようともしない。彼が求めているのは、慰めではなく、書類なのだ。一度などは、壁のうえの切れ目から洗面器いっぱいの水を従僕に浴びせかけた役人さえあった。
☆性急な人(死人)は、なだめようとしても、さらに短気になり、従僕(死人)の戯言など全く聞く耳を持たず、慰めなど求めていなかった。
不和による先祖の傷痕は、従僕(死人)によって水槽で洗われていた。