続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『桟敷席』

2016-02-26 06:19:15 | 美術ノート

 『桟敷席』
 異様な雰囲気である。第一こんなに広くてがらんとした桟敷席なんてものがあるのだろうか。桟敷席というものは上から観られるように設えられた贅沢な席のはずなのに、ひどく質素で寂しい空間としか思えない。
 しかも双頭の女性が少女の背後に腰かけている。(画面から見ると手前であり、気味悪くこちらを見ている)

 双頭の女性は、劇場を見ている少女に比して大人の印象である。椅子に腰を掛けているが、手(足)は小さく存在感の希薄な印象であるが、それを打ち消して余りある《双頭》の強烈な印象がある。
 有り得ない姿であれば、幽霊や背後霊のような気もしなくもないが、そのことに意味を見いだせない。
 なぜ、双頭なのか・・・二つの思考という解釈が妥当かもしれない。頭部の髪が描かれていないが、着衣からして男女の可能性も否定できない。少女を見守っているのだろうか。

 床は波状で水面を暗示させている、床は少し傾いているようでもある。つまりは不安定であり、光りの射さない空間である。

 劇場に見入る少女、もう一つの異世界に見せられた少女・・・その背後に潜む怪しい薄い存在感。双頭である不気味な空気に彼女は気づいていない。

 少女の背後は、少女の空想の領域だろうか。今まさに公演中の劇中劇の再現の思いなのだろうか。

 『桟敷席』特別に設えられた個別の空間、舞台を観ている感想が、この背後の奇妙な双頭の女性(受け入れがたい拒否感)を含めた殺伐とした寂しい不安定な空間なのかもしれない。

 双頭・・・二つの思考、二つの大いなる力。
 少女は観ているのか、見られているのか・・・桟敷席の怪しい魔力を秘めた閉じられた空間である。
 舞台を観る少女の背後の異様な重さ、双頭は驚愕・辛苦の表象かもしれない。

 少女の中に潜む奇想天外な思いに馳せたマグリットの客観的な観察眼である。

(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より


『銀河鉄道の夜』238。

2016-02-26 05:48:12 | 宮沢賢治

それがまただんだん横へ外れて。前のレンガの形を逆に繰り返し、たうとうすっとはなれて、サファイアは向ふへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのやうな風になりました。


☆往(人が死ぬこと)の途(みち)は、全て経(常なる)劇である。
  双(二つ)の片(二つに分けたものの一方)の講(はなし)は恒(常)に新しい丁(十干の第四/die死・死を暗示していると思う)の図りごとの考えである。


『城』2243。

2016-02-26 05:38:04 | カフカ覚書

だけど、ぼくは、そのことにことさら反対しているんじゃない。当局がりっぱなお役所であれば、なにもびくびくと畏怖の念なんかいだくことはないんですからね。


☆だけど、わたしはそのことで反対しているのではありません。先祖の立派な裁判であれば何も恐れることはありませんから。


いつまで?

2016-02-25 07:49:57 | 日常

 「いつまで生きるの?」

 誰もが抱く最大の疑問である。疑問の中を疑問を忘れて生きていると言ってもいいかもしれない。

 これから・・・「まだどのくらい生きるの?」神さまがいるのなら教えて欲しい。

 明日も生きているかもしれない、生きているらしい、きっと。(だから、頑張らなくちゃネ)

 小さな子供も大きな大人も、先の短いとされる高齢者も、みんな頑張っている。頑張らねばならない。(仕方ないね)

 日々の重なり・・・劣化し、ひび割れ、埃もたまっていく。
 ああ、マイナスのスパイラルに落ち込んでいくのを精一杯食い止める。自分を食い止める、力づくで自分を騙し無理にも明るく楽しいのだと言いきかせてみる。

 これがわたしの日常だと思えば、少し淋しい。淋しくないように何とか策を講じなくては!


マグリット『本来の意味』

2016-02-25 07:12:17 | 美術ノート

 『本来の意味』
 四つに区切られた領域、その一つに〔Corps de femme〕と書かれた文字がある。
 ×の形で区切られた他のエリアには、青(海or空/宇宙)、深緑(植物/食料・酸素)、煉瓦積み(人為/人智)が各描かれている。
 ×もしくは四角い縁取りは漆黒である。闇黒・無窮・・・否定、マイナス的要素が強く感じられる。

 これらの条件が『本来の意味』であるという。
 
 Corps de femme を見て、異国語のわたしには、女の身体だとは直観できない。文字らしきものの羅列でしかなく、意味を持たないものという認識である。
 ブルーに少しの白が混じる画面からは、経験上、空もしくは海、空漠から中くらいは想起出来るかもしれないし、心理的には希望、なにかの予兆と捉えることが可能かもしれない。
 深緑からは深林・深森のイメージがわき、心理的には陰鬱・冷静が当てはまるかもしれない。
 煉瓦積み(模様)からは人の手、人類の進化などに思いを馳せることが出来るかもしれない。

 全て、《かもしれない》という仮定である。決して本来などという同値には結びつかないのである。

 パイプを描いて「これはパイプではない」と主張したことと逆説的な意味で同じことを言っている。
 文字通りの意味ではなく、解釈はさまざま雑多な感想がある。文字を読めないわたしにとっては書かれた文字らしきものは何の意味も持たない。彩色やそれらしきものでさえ、認識の範囲は万人の人が万の感想を抱くほどに、広く不確定である。 

 『本来の意味』は、《在る、しかし、無い》という範疇のものである。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』237。

2016-02-25 06:28:01 | 宮沢賢治

黄いろのがだんだん向ふへまはって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たいとう青いのは、すっかりトパーズの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。


☆往(人が死ぬこと)の後の講(はなし)である。
  衝(重要)は証(ありのままに述べ)審(正しいかどうかを明らかにする)記を兼ねている。
  二つの帖(書き物)で、共に録(書き記している)。
  霊(死者の魂)の綿(細く長く続く)訥(口が重い)を注(書き記すこと)を遂げている。
  省(自己を振り返ってみる)章(文章)の綿(細く長く続く)記の録(書き記したもの)註(意味を解き明かす)真(まこと)である。
  講(はなし)は妙(不思議)に換(入れ替えている)。


『城』2242。

2016-02-25 06:20:36 | カフカ覚書

この土地じゃ、生まれたときから城にたいする恐怖の念が身にしみついていて、おまけに、一生のあいだ手を変え、品を変えして四方八方からそれを吹きこまれる。あんたたち自身だって、できるかぎりそれに手をかしているんです。


☆ここで生まれたあなたたちは裁判所(死)に畏敬の念を抱いている。生命を異なるように四方八歩から手を尽くしている。あなたたち自身もできるかぎりそのことの効果を期待しているんです。


マグリット『旅人』

2016-02-24 07:17:29 | 美術ノート

 『旅人』
 静かな海の上に浮いている球体、ライオン・トルソ・椅子・樽・金管楽器・緑の葉(植物)・ミシン・麻袋…のようなものが球体状にまとめられ張り付いている。

 これを『旅人』と称している。
 宙に浮いている、存在感の希薄な浮遊。どこへ向かっているのか、目的が見えない旅の途中。

 ライオンは王の象徴、遠い眼差しのライオンは孤独であり、トルソ(女体・飽くなき性欲というより乾いた欲望)が、その背にのしかかっている。その上には大きな椅子、緑(自然)の上に置かれた椅子は地位・名誉の象徴であるが、漠とした態である。椅子の脚は立地点が不明であり、手前の脚などは鏡を抑えているのか、滑り落ちる兆候なのかも定かでない。
 鏡に映るものはない、つまり虚空である。
 樽と袋の包みは生きる糧、食料や財貨の暗示だと思う。ミシンは衣服など・・・(衣食足りて礼節を知る)という訓があるが、基本である。
 ラッパ(金管楽器)は主張、けれど虚空に鳴り響くばかり(かもしれない)・・・。


 球体に隠れた面には何かもっと別なものがあるに違いないけれど、これらを包み込んだ一つの球体(世界)を所有するわたくし(マグリット)は浮世を離れた孤独な放浪者であります。
 人は誰でも王たり得る自分の主であり、煩悩と生きる糧からは離れがたくありますが、虚しい地位には執着するものではありません。
 鏡の中の虚空間に描いた思いの丈はやはり、虚空に帰すものかもしれません。
 緑(植物の活性/自然)にもまして、黒々としたわたしの疑念の数々は容易に解けるものでもなく、わたくし(マグリット)は、宙を浮遊し探求しつづける旅人であります。(という声明を感じる)


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


三浦の河津桜と菜の花

2016-02-24 06:56:36 | 歩こう会

 京急YRP野比駅から三崎行に乗車すると、メンバーの顔が。(久しぶり)
 でも何やら興奮気味に話している。よく聞いていると、杉田あたりで人身事故があり電車が遅れているということらしかった。
「わたしもやっとこの電車に乗ったけど、駅構内は人で溢れ返っていたわ」という。

 そんなことから飯盛仲田公園では十五分延長しての出発になった。初声町下宮田から初声中学の方に向かい、みかん園から小松ケ池へ。河津桜(緋寒桜)は満開をやや過ぎていたけれど、それでもすれ違う人でいっぱい。

 桜並木に並行して赤い電車(京急電車)が通るとみんなカメラを構えた・・・のに、カメラを忘れたわたし、ただボォーッと眺めていただけ(ちょっとがっかり)。

 一面の桜(緋寒桜)の美しいこと!
 桜や菜の花を堪能できただけでも幸福。


 5キロの行程、「ゆったり悠遊ウオーク」の皆様、ありがとうございました。
  家に閉じこもってばかりのわたし、歩行困難の未来を恐れての参加。《歩かなくちゃ、歩かねば!》の一心。


『銀河鉄道の夜』236。

2016-02-24 06:38:56 | 宮沢賢治

 窓の外の、まるで花火でいっぱいのやうな、天の川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとほった球が、輪になってしづかにくるくるとまはってゐました。


☆双(二つ)の我意は化(形、性質を変えて別のものになる)の果(結末)であり、千(たくさん)の註(意味を書き記す)があると告げる。
  代(他のものに変る)を兼ね、仏の詞(ことば)になる等(平等)が律(決まり)として逸(かくれている)。
  蔽(見えないようにする)臆(胸の内)が混ざっている。
  照(あまねく光があたる=平等)の願いである章(文章)は法(仏の教え)による霊(たましい)の講(はなし)である。
  霊(死者の魂)の態(ありさま)を示(教え)究める倫(人の行うべき道である。