にもかかわらず、わたしたちは、仕事にとりかかりました。まず、父からはじめました。村長や秘書たち、弁護士たちや書記たちのところへ無意味な請願に日参しはじめたのです。たいていは、会ってもらえませんでした。
☆わたしたちは弁明にとりかかりました。まず、父から始めました。想像がつく公表しない原稿の代弁を書く人のところへ無為にもお願いに行ったのです。たいていは迎え入れてもらえませんでした。
『礼節の教え』
晴天でも荒天でもない曇り空、大地はどこまでも平野が続いているという景の中の《巨石と大樹》の並置である。
巨石(無機)と大樹(有機)、普遍(死を迎えないもの/地学的に長いスパンでは循環は有るかもしれない)と輪廻(生死を余儀なくするもの)である。
互いに領域を犯すものではなく、共存を前提とした世界にあるが、対照的に比較しうる要素を必要としない。なぜなら硬質である岩石に樹木が生えることも育つことも不可能だからである。
岩石が倒壊すれば樹も倒壊するかもしれないが、地中の根が再びの芽を用意するだろう。そして樹は、何をもってしても岩石に対抗する術を持たない。
巨石と大樹には、精神界に属さないという共通項があり、ただ宿命のままに存在するだけである。意志は抑制制御されているというより、《無》に他ならない。
《ただ、在るがままに存在し、存在価値は等価である。》
これが『礼節の教え』の基本である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「さうだらう。して見ると勘定は帰りにこゝで払ふのだらうか。」
「どうもさうらしい。」
「さうだ。きつと。」
☆現れたものを換(入れ替え)訂(ただした)記に嘱(ゆだねる)。
わたしたちは、償いをすることなど自分たちにはできっこにということを知っていましたし、また、わたしたちがお城とのあいだにもっている有望なつながり、つまり、父に好意をもっていたソルティーニとのつながりもこの事件のために手のとどかないものになってしまったということも承知していました。
☆わたしたちは、償いをすることなどできないということを知っていましたし、またわたしたちが死にむすびつける唯一の答えとのつながりもこの事件のために立ち入れないものになってしまいました。
子供の成長には目を見張るものがある。
ついこの間まで幼児そのものだったのに、7歳になったキヨちゃんは、何のゲームなのか知らないけど、叱られることを怖れないほど熱中している。
それでもわたしが紙芝居をすると真剣なまなざしを向ける。紙芝居だから子供向けには違いないけど、幾つか実演した中でも再度の要求が『やまなし(宮沢賢治・原作)』だったりすると少々驚いてしまう。
それに、重ねて置いてある本から「これはマグリットと言うんでしょう」などと指差し、「見たいな」という。
見せてあげると静かにページを括り無言である。
おばあちゃん(わたし)の感覚が離れて暮らす孫に飛び火しているのだろうか(まさかね)。
それとも幼い子供にさえも、共鳴できる影響力が賢治やマグリットにあるのだろうか。
親ばかならぬ「婆ばか」・・・甘い夢の過った孫の到来でした。
『現実の感覚』
静かな里山、田園風景に浮かぶ巨大な岩石、その上空には二十六日あたりの月が南中している。
《非現実の光景》が『現実の感覚』であるという。
つまりは《心象風景》である。現実にはあり得ない景であるが、心象を具体化すればこのような現象になり、これこそが「内なる現実の感覚」であると。
重い巨石(不安・危惧の象徴)が常に心の内を動かし難く占めている。見えないはずの月(二十六日の月の南中は明け方は見えても真昼には太陽光によって見えない)を抱く不条理。
風景ではない、感覚である。見えないはずの感覚を具象化すればまさにこの泰然とした不条理極まる景こそが『現実の感覚』になる。心は常に現実(田園風景)から離脱・浮遊し、虚実の交錯した時空がわたくし(マグリット)の『現実の感覚』である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「はゝあ、何かの料理に電気をつかふと見えるね。金気のものはあぶない。ことに尖つたものはあぶないと斯う云ふんだらう。」
☆科(とが)ある霊(死者の魂)の裏(うちがわ)を伝える。
祈りを兼ねる魂の記は千(たくさん)の詞(ことば)で運(めぐらしている)。
わたしたちは、こんなふうにしてはこれ以上生きていくことができませんでした。まるっきり希望なしで生きていくことなんかできませんでしあ。そこで、どうかお赦しくださいと、めいめいがそれぞれのやりかたでお城に哀願したり、しっこく頼みこんだりしはじめました。
☆わたしたちは今後これ以上生きていくことが出来ませんでいた。完全に希望を失たのです。そこで、それぞれのやり方で赦してもらえるように、お城(推論・結末・死)に請願をし始めたのです。
「大人はみんな畑仕事だから、朝起きてご飯を炊くのはわたしの仕事だったわ。薪をくべて…味噌汁もね。
学校へ行く前よ」
「それから、牛を連れて散歩をしたことがあるの。で、何かの拍子に転んで、手綱を離してしまい《どうしよう》と思って立ち上がったら、牛は逃げずに(幼い)わたしの傍でジッとしていたわ。何か分かるのね、気持ちが通じているっていうのか…牛も家族だったから」
そんな話をしてくれたAさんも寄る年波には逆らえず、買い物に出ると坂上にある自宅まで帰りはタクシーを利用しているらしい。
ある日、降りようとして財布を確かめると料金不足…。
「すみません、家に入ってお金を取りに行ってきます」と運転手に告げると、
「いいですよ」と言ってそのタクシーは走り去っていったという。
Aさんは、その運転手さんにとって顔馴染みだったのかもしれないし、自分の親を思ってのことだったかもしれない。
(何か分かるのよね、気持ちが通じているっていうのか…)
横須賀は里山の風景を失くしているけれど、まだまだ人情はある、と思いたい。
『ピレネーの城』
水平線(海)の上空に、本来浮上する筈のない巨大な岩石が浮いており、その岩石の上にはやはり岩石で出来た(石化した)城がある。
重力界である地球においてこの現象はあり得ない。
しかし、わたしたちの地球は球体ではあるが、このような形で宙に浮いている。
億の何乗もの遠い未来、果たして地球は存在しているだろうか。形骸化した地球の成れの果てが、地球に酷似した新星の上に意味なく浮いているかもしれない…。
新星に生きる未来人たちは、首を傾げ、この物体の究明に心血を注ぐかもしれない。
未来を空想する夢想の世界は限りなく自由であり、物理界の法則は通用しない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)