黒田徳米・西宮・貝:大谷洋子氏
江嵜企画代表・Ken
「西宮には貝類学の基礎を築いた方がいました」という言葉で大谷洋子さんの神戸酒心館ホールでの講演ははじまった。その人の名は黒田徳米さん。氏が名前をつけた貝は700種ある。晩年は西宮回生病院(当時菊地典夫院長)に寄宿していた。赤いトンガリ帽子をつけた回生病院の姿がプロジェクタ―に映された。講演会場の様子をスケッチした。
標本・文献は全て菊地氏から西宮市に寄贈され、それを基に西宮市貝類館が1999年5月にオープンした。黒田氏は100歳5ケ月で亡くなられた。その時昭和天皇から賜ったお歌「わがために貝の調べを助けくれしきみもまた去りにけるかな」が披露された。
大谷洋子さんから貝のお話を聞くのは二回目である。以前西宮文化協会での講演会の様子をまとめた「スケッチ&コメント」が縁で、それが神戸酒心館、安福幸雄会長の目にとまり、講演会の後、講師を囲んでの懇親会にもお招きいただいた次第である。
講演会の貝の話に戻す。貝は5億年前、古生代から生存している。頭足類、オウムガイは現在もそのままの形で生息し続けているというからすごい。食用、道具、祭事、中国殷の時代にはお金としても使われた。貝がついた文字はお金に関わりがある。法螺貝は戦国時代、出退陣のときに合図として使われた。法螺を吹くという言葉は、ホラガイの口は小さい。先は大きい。ささいなことを大袈裟にいう意味はそこから生まれた。
貝と人との関わりは深いと話しは続いた。貝紫の名で知られる染料や螺鈿など貝の切片を利用した装飾品などにも使われる。宮中での御姫様の遊びからはじまった「貝合わせ」や碁石、ベイゴマなど庶民の遊び道具にも広く使われている。
予断ながら日本画になくてはならぬ画材、胡粉は貝殻から作られる。黒田清輝が画いた女性の肌の白は胡粉が使われ、当時、パリで話題を独占したことでよく知られている。
ミミズの仲間のゴカイは元貝が貝がらを捨てた。まさかと思うがイカもタコも昔、貝だったというから文字通り目からうろこの話である。何度聞いてもこの手の話は面白い。
大谷洋子さんの1時間半の講演会の全ては書ききれない。正直言って西宮文化協会の時の講演会よりはるかに面白かったことを白状する。西宮市貝類館は某有名建築家Aさんの設計だそうだ。夏暑く。冬寒い。津波が来れば往復でやられますと鋭く指摘されたところが特に印象に残った。
最後になったが、素晴らしい機会をいただいた、「神戸酒心館」、安福会長さんに感謝申し上げる次第である。(了)