廣田神社正式参拝と社宝拝観
江嵜企画代表・Ken
西宮文化協会三月行事として、3月11日(金)、廣田神社正式参拝と社宝釼珠拝観が
あり、午前10時半に社務所前に集合した。拝殿参拝のあと場所を社務所に移動、西井
璋宮司の講演を聞いた。会場の様子をいつものようにスケッチした。
廣田神社の御祭神は天照大御神。古事記(和銅5年)(712)、日本書紀(養老4年)
(720)に、神功皇后が海外遠征で大勝利をおさめ凱旋の帰途、武庫の地・廣田の地
に創建されたとあるから、これだけでも日本有数の由緒ある神社だということが分か
る。
この日会場に特別展示された秘宝釼珠については、日本書紀に「豊浦津に泊まりたま
ふ。この日に、皇后、如意珠を海中に得たまふ。」とある。釼珠はしばしば盗難に
遭っている。一向宗の一揆により紛失した本願寺の僧侶により返還された。その節に
後奈良天皇(1526~1556)の聖旨を煩わし、朝廷より金襴の御袋が付せられた。
慶安年中(1664~1651)の盗難では、盗賊が鉄槌で粉砕したところ鉄槌が砕け、毎夜
釼珠が鳴動した。高野山の千手院谷に捨てると、高野山が鳴動したので明成院の僧侶
により返還された。廣田神社は、昭和の初めころまで、つつじの花見の名所だった。
余談ながらと前置きして、花見の酔客が暴れ、争いが、絶えなかったという話も残っ
ていると、西井宮司が紹介された。
「二十ニ社」については、禰宜の嶋津宣史氏が説明しますと西井宮司が演壇を降り
た。「二十ニ社」は、神社の社格一つである。国家の重大事、天変地異の時などに朝
廷から特別の奉幣を受けた。京から見て遠方の神社でなく主に畿内の神社から選ばれ
た。伊勢神宮から始まり、加茂神社、石清水神社などと続き、廣田神社は18番目に出
てくる。
この日、会場で、寛政六年(1794)大阪の商人が講を結成して「二十ニ社」を巡拝し
たときの奉納額を閲覧できた。天明七年(1789)に大飢饉が起こった。民衆は幕府に
救済を求めた。幕府は応じなかった。民衆は朝廷に訴えた。当時、光格天皇は京都所
司代に圧力をかけた。朝廷の存在を民衆が再確認した。その流れが尊王攘夷論につな
がったかもしれないと、禰宜の嶋津さんは話した。
廣田神社は、近隣の人たちの間では「廣田さん」の名で親しまれている。しかし、全
国的に広く知られているのは廣田神社ではなく、廣田神社の末社の西宮戎神社であ
る。参加者に配られた「神社の略歴」を書いた栞に『西宮の地名の起こり』が出てい
た。
「廣田神社は、京の西方にある特別な神社ということで中世の貴族たちは「西宮」と
別称した。その後「西宮」の語は廣田神社の荘園である廣田新郷(神戸市東部~尼崎
西部、有馬・猪名川に及ぶ)全体の地名として使われるようになった」とあった。
「廣田神社の西井宮司は平成11年に西宮神社から移られた。西宮文化協会とも縁が深
い方で、そんなご縁もあって、今回、貴重な釼珠を拝観できた」と山下忠男、西宮文
化協会会長が講演の前に紹介された。秘宝釼珠が一般の人の目に触れるのは30数年ぶ
りだそうだ。貴重な機会に恵まれ、今回の企画をされた西宮文化協会にひたすら感謝
である。(了)
廣田神社正式参拝と社宝拝観