八角墳について
江嵜企画代表・Ken
八角墳について歴史家の直宮憲一氏の話を聞く機会が8月27日、「甲陽歴史会」であり楽しみに出かけた。会場の様子をスケッチした。参加者には考古学その道数十年のお歴々が多い。当会は恒例として午後からの甲陽同窓会総会の前に開かれる。
門外漢の筆者がなぜ「歴史会」に声をかけていただくのか。38回生の筆者は高校時代、地歴部に在籍していた。当会のお世話役で、当時中学2年、後に大学で歴史学教授になられた41回生の橋本久先生に新聞紙を固めて作る日本地図の制作を香枦園の中学まで出かけて指導したことが縁である。忘却の彼方だが、数十年たった後もその時の印象が強く残っていると橋本先生から聞いた。
前置きが長くなった。八角墳とは文字通り正八角形の古墳のことである。古墳には方墳、円墳、前方後円墳などがあると、当時、日本史を教えておられた、子供の時には何も知らなかったが、考古学の権威、高井悌三郎先生から教わった記憶はある。八角墳の話は、教わったのかもしれないが記憶にない。
直宮先生と八角墳のご縁は、宝塚市にある売布神社裏で発見された中山荘園古墳が発掘調査の結果、八角墳だと分かった。直宮先生は、同調査に全面的に関わったことに始まる。八角墳は古墳時代末期、7世紀中葉に造られた。八角墳は34代欽明天皇(629年即位、641年没)の墓、段の塚古墳から始まった。
即位した大王だけを祭る為に造られた。大王を他の有力豪族から隔絶した支配者とみなし、中央集権国家樹立を目指す目的があった。八角墳は、京都の御廟野古墳、現天智天皇陵、奈良明日香村の野口王墓古墳、現天武・持統合葬墳でよく知られている。
欽明天皇歿後2年、643年に蘇我入鹿が山背大兄王子を自害に追い込む。646年には大化の改新、661年には天智天皇即位、663年に新羅と百済の争う、白水江の戦いがあった。多くの百済人が海を渡り難民として日本へ移り住んだ。
671年には壬申の乱、大海人皇子と大友皇子が争い、673年に天武天皇(大海人皇子)が即位した。690年に持統天皇即位、701年に大宝律令成立、708年の和同開宝鋳造と続く。
八角の意味には道教などにみられる中国の政治思想で、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想の影響が考えられる。相撲の世界にある『ハッケ≪八卦≫ヨイ、ノコッタ、ノコッタ』の掛け声は、占いの八卦からきていると考えられる。
直宮先生の講演には全く出なかったが、相撲協会の現理事長は、たまたま八角親方である。大相撲九月場所が9月11日(日)から始まる。大いに脱線した。(了)