荒川裕紀先生大いに語る
江嵜企画代表・Ken
「阪神間の成立と十日戎開門神事福男選びの歴史的変遷」と題して荒川裕紀、明石工業高等学校准教授の講演会が、西宮文化協会八月行事として8月20日(月)午後1時半から西宮神社会館で開かれ楽しみに出かけた。会場の様子をいつものようにスケッチした。
山下忠男、西宮文化協会会長は「本日は室町期に起源をもつ、十日戎開門神事福男選びのお話です。この神事は、戦後いったん途絶えたあと復活した。講師の荒川先生は、41歳、見ての通りの男前、新進気鋭の学者さんです。ご自身、若いころ十日戎開門神事に自ら走られたスポーツマンでもあります。」と冒頭、挨拶された。
「十日戎開門神事福音選び」との出会いは23年前の阪神淡路大震災だった。震災で友人をなくした。3年間、米国留学した。自分の国のことを聞かれて、答えられない。日本文化を調べてみよう。その時西宮文化協会の講演会で十日戎福男神事の話を聞くご縁をいただき、十日戎開門神事に参加した。」と話を始めた。
「当日、最前列で開門を待った。朝6時、門が開いた。一気に飛び出した。その時の頭の中には何もなかった。「ハレ」(非日常)と「ケ」(日常)の存在を初めてからだで感じた。それを何とか証明できないかと西宮神社の十日戎の歴史的変遷を調べ始めた。甲南大学で「阪神文化辞典」に出会った。」と荒川さんは話を進めた。
「鎌倉期には「御狩神事」と称され、旧暦正月10日に縁日として祭礼が行なはれた。地元住民は「忌籠(イゴモり)」を前の日に行う。その状態が解けることによって「ハレ」の境地に達した。これが十日戎の原型で「ケ」から「ハレ」への時間を分ける道具として「門」の役割が増してきた。」と大阪毎日新聞、明治32年(1899)の記事にあった。
「阪神間の成立には、阪神電車の開通が大きく関わっている」と荒川さんは話した。阪神電鉄は明治38年(1905)に大阪、神戸間に開設された。「「汽笛一斉新橋を」で始まる鉄道唱歌はよく知られているが、実は、「阪神電鉄唱歌」(1908年、作詞:大和田建樹、作曲:田村寅蔵)があります」と紹介、「西宮あたりから歌ってみます」と以下歌った。
♪松風うつる武庫川も、後に鳴尾の百花園、墓ある今津の昌林寺、戎の神に参詣の老若つどう西宮、御前の浜の風景は歌にも詩にも尽くされず、松原涼しく波清く夏は海水浴場となりて西より東より人の集まる此の海邊、広田官幣大社をも拝して立ち寄る香枦園、四季の眺めは備わりて新たに開けし遊園地、行くて急がぬ旅人は登りて見よや甲山♪
西宮神社の十日戎は旧暦で行はれていたが、阪神開通後、旧暦と新暦二度祭典が行われた。「阪神電鉄は旧暦ほどの人手はなかったが新暦の十日戎にも大勢の参拝客を運んだ」と明治41年(1908)1月11日付の大阪朝日新聞神戸版の記事にある。
福男の誕生は昭和12年(1937)1月10日の神戸新聞にある。「開門前から福運引きあての競争者で黒山の人を作るだろう。今年の戎さんの一番は誰だろう。市民の興味はこの一点に集中された。西宮市久保町の材木店の田中太一さんだった。」と書いた。戦争がはじまってからは、福男についての記事は戦時色を強めて行く。昭和20年(1945)終戦の年の1月10日の朝日新聞阪神版は「防空服姿で戦勝祈願の決戦色氾濫」と書いた。
昭和43年(1968)「戦後13年間継続してきた福男レースは今年から危険防止などのため中止された」と昭和36年(1961)毎日新聞にある。そして平成元年(1989)1月9日の朝日新聞阪神版は「十日は午前6時の大太鼓を合図に開門。到着順に一番福、二番福、三番福の福男三人を決める神事がある」と復活を伝える記事を書いた。
「近年では、十日戎福男神事は、近畿圏のみならず、日本全国、さらにはロイター通信などを通じて国外にまで配信され、さながら、関西の一大行事として認知されるようになった。」と荒川先生はスライド解説入れて1時間半の講演を終えた。貴重な講演を聞くことが出来、西宮文化協会事務局の皆様にひたすら感謝である。(了)