メリケン波止場の震災モニュメント
江嵜企画代表・Ken
JR神戸線「元町駅」下車、東改札を出て南北に走る鯉川筋を神戸港に向かってゆっくり30分ほど歩くとメリケンパークがある。思い立ったが吉日と7月12日(日)昼過ぎ促されるように出かけた。
25年前神戸を襲った阪神淡路大震災で被害を受けたメリケン波止場の岸壁が海側に大きく傾き、陸地のコンクリート舗装が陥没した。傾いた照明灯をそのまま固定、被害状況を目に見える形で残したモニュメントを描き残しておきたく、はじめてスケッチした。
実話「阪神淡路大震災25周年」と題して7月18日(土)11時から「直観塾」塾長、作家の佐藤眞生さんの自宅で開かれる卓話会に出かける予定である。まだ先のことだと高をくくっていたが、月日の経つのは実に早い。何を話すかはあらかた心の準備は出来ているが正直、焦点がいまだ絞り切れていない。
佐藤眞生さんによれば、時節柄、お客さんはゼロ。進行役の佐藤さんとDVDを撮影いただく映画監督の今井いおりさんお二人だけと聞いた。
メリケン波止場。慶應3年12月7日(1868年1月1日)神戸港は世界に門戸を開いた。慶應4年4月2日(1868年5月23日)鯉川尻に造られた長さ18.2メートル、幅10.9メートルは第三波止場と名付けられた。近くにアメリカ領事館があり、なまって「メリケン波止場」になった。波止場と中突堤の16ヘクタールを埋め立て昭和62年(1987)4月29日にメリケンパークがオープンしたと記念碑に記されていた。
梅雨の晴れ間とはよく言ったものである。日曜日ということもあり、元町界隈には家族連れ、若いカップル含めて結構な人が出ていた。
阪神淡路大震災は平成7年1月17日、神戸を襲った。人間、最後はこうして死ぬのだなとふとその時、思った。自宅マンションでねぼけ眼でよっこらしょと、起き上がろうとした瞬間、ドーンという言葉にならない響きの中、頭をわしづかみにされ振り回されたような衝撃に見舞れた。いまもその時の恐怖は身体の中にしっかり貯えられている。
数年前に亡くなった阪神青木駅近くで住んでいた2つ年上の従兄は震災当日、散歩中だった。バリバリという地鳴りがしたと話していた。あとでそれが電磁波による音だと言われた。
従兄の話では被災地をぞろぞろ取材に来る報道陣に悪態をついたが、あとでまずいことをしたと反省していた。テレビや新聞で書いたり放送されたりした地区に義援金や義援物資が届いたからである。
被災現場での報道姿勢としてはテレビ映りがいい箇所が集中的に撮影された。「これはいけるでえ。」というカメラマンや報道記者の声が聞くとはなしに聞こえた。
里の近くにある先祖の墓の惨状は鮮明に記憶している。墓石が散乱していた。引力の影響で上の墓石が下に落ちるのは理解できる。お隣さんの墓石が当家の台座に逆さに鎮座していた。国土交通省の係員にたまたま会ったが「90センチ移動しています」と話していた。国道2号線から墓所まで200メートルはある。電信柱がことごとく倒壊、道をふさぎ歩くのがやっとだった。
神戸市民はお行儀がいいとされた。しかし、余震が続くなかコンビの棚はみるみるからっぽになった。盗難が横行した。里も全壊したが震災の3日目には留守中ドロボーが入った。亡父の従弟の好意で貴重品などを震災翌日に預かってもらっていたので事なきを得たことも忘れがたい。自宅マンションも盗難に遭った。
母校本庄小学校のトイレはうんちがてんこ盛りだった。トイレの話はテレビ映りが悪いのであろう。取り上げられなかった。食べれば出る。生き物の基本的な現実から目を逸らせてはならない。死体と避難者が同居して数日過ごす様子も撮影が避けられた。
肉厚の革ジャンパーで腕や身体の外傷を防げた。全壊の里の家に入ったとき頭の上から瓦が直撃した。厚手の帽子をかぶっていたので事なきを得た。軍手も有効だった。靴下も有効でガラスの破片を守ってくれた。
避難先の大阪住之江の家内の里と被災した自宅マンションと里を毎日パトロールした。電車は数日間動かなかった。自転車が有効だった。梅田と甲子園、梅田と西宮北口は電車は動いていた。同窓生の母上のご厚意で神戸と甲子園や神戸と西宮北口の中継点としてほぼ毎日憩いの場をご用意いただいた。震災の日と翌日泊めていただいたご厚意も忘れられない。
芦屋市内での無料の炊き出しにもずいぶんお世話になった。神戸の長田区で被災した従兄家族は仮設住宅住まいが2年近く続いた。住んでみて初めて分かるが冬場、体の芯まで冷えきってしまう。体調を崩す人も多いと話していた。
神戸の自宅の近くに透析専門の病院がある。病院が被災して電源が断絶、文字どうり「糧道」を絶たれた患者が多く出た。震災の時に母親のお腹にいた胎児に成長後障害が出る。幼児でも震災の恐怖を経験すると大人になっても風邪を引きやすいという話も聞いた。
7月18日、卓話会に何から話し始めるか迷っている。文章でも書き出しで70%決まると言われる。メリケン波止場のモニュメントをスケッチが出来て今少し落ち着いたような気分でいる。
語り部として、嫌がられても阪神淡路大震災の経験はいろいろな機会に書いたり話しておきたい。この度、はらずも卓話の機会をご用意くださった作家の佐藤眞生さんにひたすら感謝である。生きててよかったと改めて実感している次第である。(了)