だから、大震災はじめ事故や事件、いじめや折檻で命を絶たれた、特に子供たちのことを思うと、何ともやるせない気持ちになる。
もちろん生きてて楽しいことばかりではない(し、僕が言うことでもないのかもしれない)が、いろんな経験させてあげたかったなあ。
友達とのおしゃべり、遠足、修学旅行、運動会、文化祭、宿題、定期試験、涙の卒業式、受験勉強、就職活動、新人研修、仕事、残業、出張、歓送迎会、忘年会、人間関係の苦労、花見、海水浴、紅葉狩り、スキー、もちつき、アイドルに夢中、恋愛、失恋、結婚、子育て、W杯に熱中、おいしい物食べ歩き、テーマパーク、コンサート、映画、小説、美術館巡り、温泉旅行、海外旅行、孫の世話、等々々々。
これら当たり前のこととして僕ら経験している事がらは、その当たり前ができなかった子たちにすれば、この上もなく有り難いことに違いない。
同様に、僕らこうして生きているけれど、災害/事故/難病に遭わずに生き延びているだけだとも言える。通勤途中で目にする小中学生もそう。不慮の事故で亡くなっていたかもしれない子たちの成長した姿だとすると、「よくぞ生き延びた」「死ぬんじゃないぞ」と思わないわけにはいかない。
こういうことは、実際に事件/事故が起きてからでないと考えないもの。(深く考えることはなくなるが)悲惨な事件は起きないのが一番。映画『マイノリティ・リポート』みたいに、事前に防げないものか。(AIが発達すれば、ある程度は可能になるのかも)
もちろん児童相談所や警察、学校や教育委員会による防止策など、現実的な対応は必要。それで以って命を落とす子供が一人でも減ってくれれば、先に亡くなった子も浮かばれようというもの。
また魂とか生まれ変わりとかも、信じたい。若くして死んでしまった子には、生きている子供たちを守っていてほしいし、次に生まれ変わった時には幸せに満ちた人生を歩んでほしいと、切に願う。(今が幸せだって人、ひょっとしたら前世ではツラい人生だったのかも)
…死が近づくと、世界が美しく見えるものらしい。前回話をしたように、ここのところ身の回りが驚きに満ちて見えるようになっているから、あるいは僕も寿命が近いのかもしれない。
いずれにせよ、あの世に行ったなら、そして亡くなった子たちに逢えたなら、ひと声掛けてあげたい。何て言えばいいのかは分からないけれども。