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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

乙一と伊集院光

2013-09-29 07:35:33 | エッセイ
 『平面いぬ。』がなかなか面白かったし、子供も「これいいよ」と言うので同じく集英社文庫の『ZOO1』を読んでみた。
 おどろおどろしい作品もあったけど、ほっこりする作品もあって、やはり良かった。スラスラと読めたし。

 ところで巻末の対談で、伊集院光の深夜ラジオに育ててもらった、という話があった。今Eテレの『100分de名著』に出ているあの伊集院さん。思わぬところで接点があったものだ。何かコメント違うな、とは思ってはいたが、ちょっと見る目が違ってくる。

 ちなみに僕らの場合(時代)は、何といっても笑福亭鶴光さん。バカバカしいけど楽しかった。
 

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地・水・火・風

2013-09-22 08:50:16 | こころ
 
 台風18号が去ってぐっと涼しくなった。初秋の、いい感じの季節である。
 ただこの夏は、また記録的な異常気象となった。猛暑に豪雨に少雨に竜巻…、被害に遭われた方にはこの場をお借りしてお見舞い申し上げます。

 地・・・地震や噴火
 水・・・洪水や津波
 火・・・火事や落雷
 風・・・台風や竜巻

 元々は仏教用語らしいが、自然を構成するとされる「地水火風」。普段は穏やかであるものの、ひとたび機嫌を損ねれば人間なんかひとたまりもない。
 つまりは謙虚に謙虚に…といった当たり前の話。

 どんなに立派な人でもイヤな奴でも、いかに天才でもいかなスーパーマンでも、地水火風に代表される自然/天あるいは神には勝てない。僕だってあなただって。それはどうしようもないことだけれど、ある種信仰のような感覚で心のどこかに置いておく必要はあるだろうと思う。

 ところで人為的な災害含め、大きな被害に遭った人たちってのは、その直前までは普通に食べたり笑ったりしていたことだろう。確率低いとはいえそれが一瞬にしてどん底に突き落とされるかと思うと、やり切れない気持ちにもなるし、極端な話生きるのが怖くなってくる。僕もあなたもこの先どうなるかってのは分からないし、「あの頃は良かった…」と今を振り返ることだってあるかもしれない。
 …で、どう考えればいいのか。それはおそらく、良寛さんが言うように「災難に遭うときは遭うがよろし」と考えるしかないだろうと思う。「その時はその時」というか。

〔写真はヒガンバナ。地水火風も撮り込んだつもり〕

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「経過報告」

2013-09-15 08:18:54 | ショートショート
「えーちょっとお時間よろしいでしょうか…はい、手短に済ませますので。
 人類が火を使いこなすようになったことは“先日”ご報告したとおりですが、その後、石炭や石油を発見しまして、ほんの少しだけまた文明が進歩しました」
「念願の発見がようやく来たか」
「縷々あって原子力も利用するようにはなりましたが、いくつか大きな事故も起こし、まだ完全にコントロールしきれているとは言えません」
「ぎりぎりあれは難しいからなあ」
「一部その反動というわけでしょうか、風力や地熱、太陽光といったものの利用も少しずつ進んでいるようです」
「のんびりしていいのだが、エネルギーとしては微々たるものだろう」
「はい。そして彼らは次に仕掛けておいたシェールガスやメタンハイドレートを活用しようかという段階にきております」
「つまりそれも火力に過ぎんから、温暖化はますます進むだろう。まだまだだな。早いところ〈あれ〉を発見して〈あの〉発明をせんことには、地球も失敗することになりかねん」
「懸念はそこです」
「ん。また何か進展があったら報告してくれ」

 Copyright(c) shinob_2005

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今は何でも見られるけれど

2013-09-08 10:07:30 | エッセイ
 『真夏の方程式』『風立ちぬ』『謎解きはディナーのあとで』と、この夏も映画を楽しんでいる。
 『ガッチャマン』も懐かしくて見ようかと思ったが、コスチュームにしろ風景にしろゴチャゴチャした感じで、おそらくオリジナルともかけ離れているだろうと思い、行くのやめてしまった。

 「ガッチャマン」といえば高校の時にテレビでやっていて、面白く見ていた。ただ勉強やら何やらで忙しく、見逃すこともしばしば。今みたいに録画するなんて時代じゃなかったから、見損ねた時は本当に残念だったもの。
 有料の場合もあるけれど、今じゃたいがいの画像を見ることができる(やろうと思えばエッチな画像も)。つくづく便利な時代になったものだと思う。でもでも、見逃した当時の年齢/気持ち/雰囲気のまま「ガッチャマン」なら「ガッチャマン」を見たかったなあ、という気はする。無理な注文なのだが。
 やり直しが利く、というのはネット時代の大きな特徴ではあるが、やり直しの利かないことも世の中たくさんあるもの。見るに見られない不自由というのも、ある意味贅沢なことなのかもしれない。

 さてさて、このあとは『マン・オブ・スティール』それから『そして父になる』を見てみたいところ。
 

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つながる言葉2(なぜ空の色は「あお」か)

2013-09-01 07:50:51 | 言葉/ナンセンス
 
 高校3年の時だったか、数学のベクトルに出てくる「内積」はなんで「内積」と言うんだろう、という話を同級生にしたことがある。返事は「内積は内積だろ。意味はない」というものだった。そいつ僕と同じくらい勉強は出来る奴だったが、「ただのお勉強バカだ」と思った次第。(実際のところは "innner product" の和訳で、ベクトルには足し算/引き算があるので「掛け算」も考えたようだ)
 中部国際空港・セントレアが“Central”と“Airport”との合成語であるように、複合語には元となる単語が必ずあって理由もあるもの。それが分からんチンには、話をしても無駄というもの。
 で今回は、そもそも元となる言葉はどのようにして発生したのか、ということについてヒマに飽かせて考えてみた。長くなりますがお付き合いのほど。

・青/赤/白/黒
 大和民族がまだ言葉を持たず感性も豊かだったころ、大空は今よりもっときれいだったろう。それを見上げると自然と口が開き「あ」の形になる。そしてその広大さ/美しさに思わず「おー」という声が漏れたに違いない。そして「あお」が生まれた。(ついでながら「仰ぐ」はこの「あお」から来ているのかもしれない。また「うつむく」も「うつ」と関係あるのかも)
 なお、昔は緑も「あお」と呼んでいたようだが、これも同じこと。
 同様に、赤いものの代表としての夕焼けを口開けて見上げた際、その強烈さに「かっ」という声が漏れ出たとすれば「あか」という言葉が生まれる。(あるいはその時、カラスが「かあかあ」と鳴いていたのかもしれない) またそこから「あかるい」が派生した。
 地上の光と影とは下を向いて見つかるもの。その際の口の形が「お」として、透き通ったイメージの「さ行」の「し」と結びついて「しろ」、重い感じの「く」と結びついて「くろ」になったのだろう。(またそこから「くらい」が派生した)

・目/手/鼻/歯
 赤ん坊が食べ物や母親を「まんま」と言うのは人類共通の現象。そして生きて行く上で最も大切な「見る」行為は発音しやすい「ま行」でやるのが理にかなっている。だからその昔、仲間に何かを見て欲しい時にはその方向を指差しながら「み! み!」とでも言っていたに違いない。それが「見る」となり、そのための感覚器官は転じて「め」になったのだろう。
 「つかむ」「もつ」のように、手を使った動作は「た行」で表わしたのだろう。それを行なう器官が「て」。(どちらがタマゴかニワトリか)
 世界的に否定語が“N”で始まるように、物が「ない」ことは「な行」で表わしたのであろう。「な! な!」というふうに。それこそ何もない、穴の開いた顔の器官である「はな」は、「ない/な」から派生したに違いない。
 肉でもエサでも、かぶりつく時は「はむはむ」という音になる。そこから「食む」という言葉ができ、それを行なう器官が「は」となった。
 
・芽/実/花/葉
 植物にとって土の中から出てくる最初の部位、それはまるで地上の様子を窺いながら出てくるようだ。だから、人間の目と同じ音「め」になった。(ついでながら、「手」から「芽」のように生えてくるから「つめ」だろうと思っている)
 生きる上で大切な食べ物(まんま)。それが植物の実であるなら、それをやはり「ま行」の「み! み!」とでも言ったのに違いない。だから「み」。
 花は、人間の鼻と同じく中心にあるものだから「はな」。
 板状でたくさん生えている葉っぱ。人間の顔で言えば歯に相当する。だから「は」。

・水/雨/天
 木の実と同様、水も生きて行く上で非常に大切なもの。それはやはり「ま行」で表わすのが合理的であったのだろう。実や水を指差しながら「み! み!」と言ったに違いない。そこから「みず」となった。
 ついでながら海は、大いなる水を目にして「おお、み!」となり「うみ」となったのだと考えられるし、水面(みなも)は「みのおもて」から。(そうすると「みずうみ(湖)」の中には水が2つ入っていることになる)
 雨は上から降ってくるものなので、見上げながら水の意味で「み」と言えば「あみ」そして「あめ」となる。自然、頭の上(天)は「あま」に。

・神/上/髪
 そして「あま」あるいは「あめ」から、強烈な印象の「か行」が頭に付いて、天にいる神様のことを「かみ」と呼ぶようになったのだろうと思われる。
 だから上の方にあるものは一律「かみ」に。(ただし「紙」についてはよく分からない) 

 …ひょっとしたら、語源の研究で有名な国語学者の大野晋さんあたり、別の説を唱えていたかも。
 しかしこうして考えると、確かに日本は〈言霊の国〉。

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