歳末。今年の仕事も終わらせ、大掃除も済み、年賀状を書く段になると(いつもギリギリ)、穏やかな心持ちになってくる。年賀状に記すひと言も、つい優しい言葉になる。
その年賀状を作るためUSBケーブルが急ぎ必要になり、近くの電器店に買いに行った。10年以上前、修理に出した掃除機が直っていたのに連絡を寄越さなかった店だ。二度と行くもんかと決めていたのだが、仕方ない。ところが応対した店員が生真面目そうな男で、昔のことなど、どうでも良くなった。向こうは代替わりしていたようだし、僕の掃除機のことなど、知っているはずもない。つまり、僕だけが、10数年間、ウラみを抱えていたってことになる。それが、消えた。
小さな店なので、大型店よりいくらか高かっただろうが、この600円は、安い買い物となった。
もう一つ、似たような話。3年ほど前、スカスカのものを売りつけたミカン直売店に10月、再び寄る機会があった。今さらながら、ちょっと文句を言うつもりであった。ところが応対した主人がまた人の良さそうな男で、旬のミカンがこれこれで、そのあと別のミカンが出回るというようなことを、いろいろと教えてくれた。買うつもりは元々なかったが、それ聞いているうちに何だか文句言う気持ちも失せ、「また来ます」と帰ってきてしまった。
あるいは、スカスカのミカンを買わされた他の客から、既にさんざん文句を言われているのかもしれない。
何年にもわたって恨んでいたものが、今年、両方とも溶けてなくなった。何だか、荷物を2つ、降ろしたような気分。向こうは覚えていなくても、こっちが覚えているってことはよくある。気持ちの負担は、もちろん覚えている方が大きい。許すことで、その負担はなくなっていく。許してやった方が、人生楽しく過ごせるのかもしれない、と思う。
もちろん、ひどいイジメやセクハラ、裏切りや一方的な別れなど、許しがたいものもあるだろう。それはそれで、何て言うのか、普通だったら考えないようなこと、感じないようなことを経験できたのだと考えられれば、それらを〈克服〉したと言える。難しいには違いないが、それは〈自分で〉決めることができるものだ。
何だかしんみりしてしまいました。皆さま、良いお年を。