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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

ナンセンス スタヂアム 6

2011-05-29 09:41:58 | 言葉/ナンセンス
 ひっさびさのナンセンス。

・妻夫木聡が結婚したら、妻夫木夫妻

・AOIUは、蒼井優。 木木木木木は、きききりん

・中森明菜 田中裕二 福山雅治 岸谷五朗
 中森明夫 田中裕子 福士誠治 岸部四郎

・小野伸二、岡崎慎司、香川真司。 風見しんご、鶴見辰吾、柳沢慎吾(あばよ!)

・ドクターイエロー、ドクターペッパー、ドクターマッコイ、ドクター中松

・証人は湘南の少年

・ツソラト 鏡に映すと「シンルイ」

・長崎くんちのツトム君

・張る→春  暑つ→夏  赤き→秋  冷ゆ→冬

・日 旦 亘 ・・・ 旭 早

 ほとんど何の役にも立ちませんが。

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酒の飲み方

2011-05-22 09:17:52 | 実用
 
 きのう辺りは半袖でもいいくらいで、ビールもおいしい季節になってきました。そこできょうは、お酒の飲み方について。

1.ビールは少しずつ
 最初の1杯はもちろんガッと空けるものだが、そのあとはそうそうグラス空けられるもんじゃない。そこへ注ぎ足し注ぎ足しすると泡も消えておいしくなくなるから、小さなグラスに半分か3分の1くらい入れてそのつど空けるようにするといい。
 宴会の席で、隣りの人の液量少ないからと注ぎ足しするのは、わざわざ不味くするようなものだから、やめた方がいい。

2.ワサビはお刺身の上に
 ワサビを醤油に溶く人がほとんどだと思うが、ワサビ本来の香りが逃げないよう、お刺身の上に乗せるのがいいらしい。僕も長いこと溶いていたのだが、池波正太郎さんの『男の作法』(新潮文庫)という本に教えてもらった。
 なお醤油も、小皿になみなみ注ぐのではなく、これも少しずつ。お魚からの水分により、段々味が落ちていくものだから。

3.注ぎの手と受けの手
 隣り同士でビールやお酒を注ぐ場合、右に座った人は右手で、左に座った人は左手で、それぞれ注ぎあるいは受けるようにするといい。これ年配の人でも意外と知らないようで、たしか小笠原流の作法。もちろん空いた手を軽く添えてもいい。
 こうすることで相手と向き合うようになって、酒の席での親密感がより深まるというもの。もちろん親しくなるのがイヤであれば、そうする必要はないわけで。

4.ビールばかりでは
 最初から最後までビール、というのもありだけど、おなか張るしおしっこばっかり出るし、どこかで日本酒/焼酎/ワインなどに切り替えるといいように思う。
 ビールばかり飲んだ翌日って、変な二日酔いが残るもの。日本人には、日本人に合った食べ物飲み物がはやりあるのだろう、と。

 冒頭の写真ではとりあえずビールを撮りましたが、お刺身にはやはり日本酒ですよね。適量が大事なのは言うまでもありませんが。
 

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ありがたい教4(僕らの代わりに)

2011-05-15 08:21:44 | こころ
 
 たとえば威張り散らしている店長。それはそれでイヤなものだが、きっと皆からの反感も買っているに違いない。そして考えようによっては、僕らの代わりに皆の反感を一身に受けてくれているのだ、とも言える。
 たとえば仕事しない部長に卑屈な課長。それも見ていて情けなくなるものだが、皆からの軽蔑も買っているに違いない。これまた僕らの代わりに、と。
「あいつなんかいなけりゃいいのに」とはよく思うことだが、仮にそういう人がいなくなった場合、反感や軽蔑が自分に向かってくるかもしれないのだ。 
 どこかで読んだ話。こういう、云わば邪魔な人間がいない人生ってのは、ディフェンダーもゴールキーパーもいないゲームでゴールを決めるようなもので、面白くもなんともない、と。
 そう考えていくと、上記のような人たちがいるってこと自体、ありがたいと思わずにはいられない。

 たとえば大きな災難/災害によって被害を受けた人がいたとする。これもまた僕らの身代わりになってくれたと考えることもできる。
 これらはキリスト教の考え方の基本のようである。イエス・キリストが、自分たちの代わりにイバラの冠をかぶせられ、ムチで打たれ、十字架に磔けられたのだと。
 僕だって、進学先にしろ就職先にしろ、2つ3つ道が違っていたら、阪神淡路や東日本の震災に遭っていたかもしれないし、何とかいう真理教の信者にでもなっていたかもしれないし、失業してホームレスになっていたかもしれない。
 2つ3つ道が違って、逆にどこかの市長や大臣にでもなっていたとしたら、不手際や失言により今ごろ槍玉に上がっているのかもしれない。

 現実に戻って。
 周りを見渡したってそう。部下は僕の代わりに雑用こなしてくれているのだし、上司は僕の代わりにややこしい金勘定をやってくれている。
 カミさんは僕じゃとてもできないような料理を作ってくれるし、子供は僕の子供の頃を思い出させてくれる。
 道路工事人、コンビニ店員、スキャンダル渦中のアイドル、大統領、それからビンラディン。もちろん本人たちにはそういう意識はないだろうが、みんなみんな、身を以って僕らの代わりになってくれているのだと考えることもできるはず。
 何ともありがたいことだ、と。

 ところで、日本語の「有り難い」には、目に見えない〈万物〉に対する感謝の念というのも含まれているように思える。英語の“Thank you”では特定の人や相手が必要だし、“Thanks”では軽すぎるような気もする。“appreciate”を使っても、どうも「ありがとう」というニュアンスは出てこない。
 

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福島へ

2011-05-08 09:21:40 | 
 
 年に何回か、フーテンの寅さんよろしく、ふらりと旅に出ることにしている。ラフな格好でヒゲぼうぼう、髪の毛ぼさぼさで(おっとこれはいつものこと)。
 どうせ行くなら、と今回のGWは福島方面へ。とは言ってもボランティアではなく、単なる温泉巡り。キャンセルが相次いでいるようだし、「温泉旅行で関東・東北地方を応援しよう」というキャンペーンに乗せられて、2泊3日で行ってきた。
 義捐金の配分がなかなか進んでいないということ、それに風評なんか蹴飛ばしてやれという気持ちもあって。

 JRの在来線を乗り継ぎ、まずは栃木の塩沢温泉へ。
 正確に言うと「塩の湯温泉」なのだが、バス停から10分ほど山道を歩いた「明賀屋本館」という所に泊まる。元々は湯治場だったという、300年の歴史がある旅館だが、川のすぐほとりにある露天風呂が風情あって良かった。夕食に出た「ヤマメの朴葉みそ」は絶品だったし、静かな夜を過ごさせてもらった。

 そして福島の飯坂温泉。
 栃木あたりから目に付くようになってきた家々の屋根のブルーシートが、福島県に入るとさらに目立ってきた。それだけ揺れが強かったということらしい。電車の中で隣り合ったおじさんも「えらい出費だ」と言っていた。瓦はやはり品不足らしく、何ヶ月も待たないと入手できないそう。工場に勤めているというおじさんも震災直後は1週間の自宅待機となったそうだ。ただ「あちらに比べれば、大したことはないが」とも。(あちらとはもちろん、原発近くや海岸線のこと)
 飯坂温泉はラヂウム玉子やら足湯やらある典型的な温泉街で、のんびりと歩き回ったのでした。

 街中でも街外れでも、見た目は特にどうということなし。普通に車や人は通っていたし、特産の桃の花はきれいに咲き、田植えの準備も普通に行なわれていた。
 余震だの放射能だの、一体どこの話って感じだったし、電車のボックス席で前に座っていた女の子2人の会話は、どこにでもある他愛のないものだった。
 しかし帰る日の3日目早朝、飯坂温泉の旅館で朝湯に入ろうと風呂場に向かおうとしたら、ロビーのソファで寝ている人がいた。空き部屋はあったし、変だなと思って聞くと、どうも避難者らしい。(他の旅館でも同様なのかも知れないが、宿の人も答えづらそうだった)

 それから、あちこちに「がんばろう、東北」とか「ふくしまは負けない!!」というノボリやらポスターがあちこちで見受けられました。
 まあ表向きは何てことない風景ですが、見えないところでは、いろいろと影響はあるのだろうと感じられました。でもそれは、よそ者は見てはいけないような気もします。

 宿のおばちゃんともいろいろ話をしたところ、朝早くに出掛けて夜遅くに戻ってくる応援勤務の人もいるし、僕みたいに応援がてら泊まっていく人も結構いるらしい。また駅では、シャベルを持ったボランティアも見かけた
 宿代や土産代(赤べこに白河夜舟に巻せんべい等)でかなり使ってしまったが、何かの足しになってくれれば、と思っているところ。微々たるものだろうけど。
 そうそう、帰りの電車より外を眺めていて、静岡に入ってからも屋根のブルーシートを捜している自分に気が付いた次第。

 あそれと、テレビも新聞もケータイも無縁の3日間だったので、ビンラディン氏が殺害されたことなど、帰ってくるまでちっとも知らなかったのでした。

〔冒頭の写真は、飯坂温泉の風景〕

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物理学的人生論

2011-05-01 06:41:00 | 科学/考察
 
 高校時代に読んだ本なので中身はすっかり忘れてしまったが、人生論まで語れるような学問って素晴らしいと、大学では物理学をやりたいと思ったものである。(残念ながらと言うか、薬学部に進んでしまった)
 4月19日にNHKのBSプレミアム『コズミックフロント』で放映された「ダークマターの謎に挑む」を見ていて、その本のタイトル『物理学的人生論』を思い出していた。

 ニュートンの古典力学であらゆる物理現象を説明できると思いきや、微小/巨大な世界では通じないことが分かり、ハイゼンベルクらの量子力学やアインシュタインの相対性理論そして大統一理論が生まれた。
 そして今、ダークマターやダークエネルギーの存在が想定される段になってきて、「超対称性理論」なる説が唱えられるようになった。ただしこれが完成したところで、また別の謎が出てくるのかもしれない。(もし謎がすべて解明されたら、それはそれで、つまらないだろう、と)
 一つ解決したと思ったら次の問題が出てきて新たな理論が構築されるという、その繰り返し。だから物理学含め他の学問も、人生に似ているな、と思った次第。これはまた、ニーチェの〈永劫回帰〉ともつながるような…。

 話戻って、なかなか捕らえることのできないダークマターであるが、僕らの体はおろか地球をすり抜けるにも拘らずニュートリノと違ってかなりの質量があるらしい。とすれば、その昔存在を予言されながら否定された、宇宙空間を満たし光を伝えるとされた〈エーテル〉なるものは、実はダークマターだった、ということになるのかも。

 ところで、医学や数学、法学や経営学から人生論は組み立てられても、薬学からは難しいように思っている。薬学出身の作家が少ないこととも、関係があるのかもしれない。

〔冒頭の写真は、宇宙の大規模構造(国立天文台のHPより)〕
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