前回、支えて支えられて、という話をした。世界的な発明・発見も、ずーっと遡れば僕らの力がどこかで役に立っているはずだ、と。
ただ、話はあくまでも、現時点での一人ひとりの範囲に納まっていた。
そこで次に、発明・発見で世の中が便利になり、難しい病気が克服され、宇宙に飛び出すようになって、そのあと人類は、ということを考えてみたい。(すごい権力者になったり、世界一のアイドルになったり、ワールドカップで優勝したり、ノーベル賞をもらったり、で、それで、ってことなのだが)
僕ら人類は、その長い長い歴史の中で、単純な生物から進化をしてきた。水の中から陸上へ、そして空へ、宇宙へと、活動範囲を拡げている。それは、垂直方向だけでなく、水平方向にも展開していることを意味する。自分の村から隣りの村へ、次に山を越えた村へ、島全体へ、そして海を越えて別の国へ…。
隣村の人間、遠くの村の人間、海外の人間、と出会う相手がどんどん増えていく。そのたびに、価値観の違いで争いが起きたり、新たな価値観が生まれたりしたことだろう。そうして人類は成長してきた(はずだ)。
で、これからどうなるのか。こっからはちょっとSFっぽくなってしまうが仕方ない。
別の星の生物。距離的・時間的な問題があって、ちょっとやそっとじゃ出会えないだろうが、次に人類が出会うとしたら、いわゆる異星人しかない。
その時、だ。「チキュウジントイウヤツラハ、コンナコトモワカラナイノカ」と思われないようにしないと(ひょっとしたら、12歳の子供扱いされてしまうかもしれない)。それが、とりあえずの人類の目標と言っていい。そのための土台の土台の(中略)土台として、僕らの生活や仕事がある。科学的・哲学的・文化的…いろんな面において。
ところで異星人との遭遇と言うと、侵略だとか食う食われるとかいう話になりがちだが、実際そんなことはまずなくて、『未知との遭遇』みたいな、穏やかな出会いになろうかと思う。侵略云々は、話として映画になりやすいから、そうなっているだけのこと。
さらに言うと、今度は宗教的になってしまうが、究極の出会いは『2001年宇宙の旅』のような、いわゆる〈神様〉や〈仏様〉あるいは〈宇宙意思〉との出会いということになる。その時、どう判断されるか。あるいは、どう感じるのか。個人的には、神様とかいうのは、その辺にごろごろ(失礼!)しているものだと思っている。数学上の真理が、発見される前からそこにあるように、普段は気付かないだけなのかもしれない。だから、異星人に遭うよりも、こちらの方がずっと簡単だとも言える。
これは、死後の世界とも通ずる。「死んだらおしまいなんだから、楽しめばいいじゃん」という考えごもっとも。でもでも、生まれ変わりというのもあるかもしれない。物質的・精神的に汚すだけ汚した世界に、また生まれ変わるとしたら、それも、たとえば汚した川の魚に生まれ変わるのだとしたら…。
…と、これは僕の、今現在考え尽くしたもの(何か大きく抜けているような気もするが)。20年30年経ったら、また全然違った考えになっているかもしれない。ひょっとしたら、「そんな小理屈はどうでも良くってさ、生きてりゃいいんだよ、生きてりゃ」と、突き抜けているのかも。それは自分でも、楽しみなこと。
(もんのすごくデカいこと書いてしまいました。来週からどうしよう…。(++;))