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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

好きになれない芸能人

2015-05-31 07:44:50 | エッセイ
・和田アキ子・・・「芸能界の重鎮でござい」って態度なのがまず気に食わない。それから紅白歌合戦ほか歌番組のフィナーレなど、前列ど真ん中に突っ立っているもんだから、後ろの歌手が見えなくなっていることに気付いているのかどうか。まさか「笑って許して」などと…。

・玉置浩二・・・僕らのマドンナ・薬師丸ひろ子と一緒になり、どうも暴力をふるったようで別れたらしいというのが許せない。オーケストラをバックに歌おうが、ちっとも響いて来ない。「生きていくんだ それでいいんだ」とでも思っているのかどうか。

・高橋真梨子・・・NHK『SONGS』にしょっちゅう出ているのも変だし、どこかのケーキ屋さんで「これおいしいのよね」と言いながら大方残したまま「ごちそうさま」も言わず店を出たのも失礼な話。どうもワガママなようだ。(ただし和田アキ子とは、仲悪そう)

 別に嫌いなわけではないが、最近出ている田島貴男という歌手は非常にアクが強くて、一度見たら忘れられない。
 …何とも下世話な話になってしまいました。

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クモの運命

2015-05-24 07:35:16 | こころ
 クモは、ダニやゴキブリなどのいわゆる害虫を捕食してくれるという。
 或る朝、滑って抜け出せないのか、洗面台に小さなクモがじっとしていた。そっと手に取り外に逃がしてあげた……と思ったら、まだ手にくっ付いていたのか、そのあと手を洗った際、揉むような格好となり少なくとも“重傷”を負わせてしまったようだ。「あちゃー」と外に葬ってあげたのだが、何ともかわいそうなことをした。

 その日その時そこに居なければ、まだまだ元気で“長生き”できたのに、と悔やまれるところ。
 これって、地面を這い回るアリにも言えるし、そろそろ道路に出てくるカエルでも同じ。また、同じことは僕ら人間にも言える。あの場所に居なければ、あの飛行機に乗っていなければ。あるいは、あの会社に入っていなければ、あの人と付き合っていなければ、等々。
 もちろん逆もあるだろう。あの電車に乗っていたからあの子に巡り合えた、あの人のおかげでここまで来られた、…。

 ところでクモと言えば、、お釈迦様とカンダタとの関係(ご存じ『蜘蛛の糸』)を思い出してしまう。小さな生き物を助けるというと、お釈迦様になったような気にもなるのだが、お釈迦様と人間との距離は、人間とクモとの距離よりもはるかに遠いのだろうと思う。人間がクモをどうするかという配慮よりも、お釈迦様が人間をどうするかという配慮の方が、ずっとずっと重く深いものに違いない。

 …あの日あのクモがいたことで、こんなことまで考えさせられたのでした。(クモが苦手な人には悪いと思いつつ)
 

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何が正しいかというのは…

2015-05-17 20:59:07 | 時事
 建築にしろ金融にしろ教育にしろ、法律というものがある。薬であれば、医薬品医療機器等法(以前は薬事法)に沿わなければならない。実際はより詳細な同法施行令や施行規則、各種通知に従うことになるが、逆に同法の上位はというとおなじみ憲法第25条に行き着く。では前文を含む憲法の上位はというと、文章自体は存在しなくて〈理念〉ということになる(いわば不立文字)。

 未成年であれ一般人であれ公務員であれ、法律には従わなければならないのは当然ながら、すべての概念を文字にすることは事実上不可能。従って、細かいところでの「解釈」の差異がどうしても出てくるし、裁判所の存在意義というのもそこにある。

 どこの国でもいつの時代でも、解釈による運用が行なわれているのだとは思うが、理念上よろしいのかどうかというのは意見の分かれるところであり、何が正しいかというのも直ちには決めづらいもの。
 とは言え、多くの市民の「何か変だ」という感覚は、集団的無意識(あるいは阿頼耶識)の中に在ると言われる〈真理〉に近いものであろうし、そしてそれは、為政者/権力者の「正しさ」をも上回れるのでは、とも。
 …気持ちのいい青葉の季節、こんなことを考えていました。

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言霊の国

2015-05-10 08:49:36 | 科学/考察
 
 あなたの周りにもいるだろうか、英語が堪能な人あるいは帰国子女。その子たちが書く日本語を見ると、だいたいが小さいかまたは弱々しい字である。日本語に自信がないのかもしれないが、すらすらと書かれる/話されるアルファベットに比べ、日本語はどちらかというと一つ一つ“気合い”を入れて書かれる/話されるように思う。

 確かに、ラジオから聞こえる英語なんか、流暢ではあるが下っ腹に力がこもっていない感じはする。首から上だけでしゃべっている、というのか。幕末、欧米を訪問した武士たちもきっと同じように感じたことだろう。例えば“コマンタレヴ?”は、気合いを入れて発音するようなものでもない。
 いわゆる横文字は、目の前を左から右に(中には逆も)動くだけで、体の正中線を通ることはない。それに対し、書道に代表される縦書きは目の前から下がって臍下丹田を通ることになる。気功で言う「小周天」に沿っているし、呼吸と一致しているとも言える。

 ひょっとしたらモンゴルやネパールにもあるのかもしれないが、日本には昔からアニミズム(すべての物に魂が宿るという考え方)があり、身の周りの物を表わす言葉にも敬意を払ってきた。だから上っ面ではなく、それこそ魂を込めて名付けたのだろう。おそらく世界中見回しても朴訥とした言葉の部類に入るのだろうだけれど、その分、心がこもっているように思う。日本が「言霊(ことだま)の国」と言われるのも、そんなところから来ているのかも。
 そう言えば仕事でドイツへ行った際、現地の女性から「日本語はとても心地いい」と言われたことがある(もちろんドイツ語で)。意味は分からないけれど、聞いていて気持ちいいんだそうだ。心に響く言葉なのかもしれない。大変失礼ながら、他のアジアの言葉はどうも耳に障るとのこと。

 だからと言って、日本だけが立派だというわけでもない。ただ言霊の幸ふ不思議な国だというのは、間違いのないところ。

 〔写真は、奇跡の書道家・山田里見「文字の力展」より〕

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関ヶ原~大垣~清洲城

2015-05-03 19:08:16 | 





   以上、関ヶ原(5月2日:暑かった。30℃とな)






   以上、大垣(5月2~3日:水の都)






   以上、清洲城(5月3日:賑やかだった。遠くに名古屋城も見えた)

 

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