思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

古林治ー武田康弘のメール対話(見田宗介・竹田青嗣らの東大公開講座を巡って)

2008-11-18 | 日記
以下は、「白樺ML」です。
古林治さんの『見田宗介・竹田青嗣らの東大公開講座の感想』(昨日のブログ)に対しての武田と古林のメール対話です。


古林さん、ご苦労様でした。

「主観性の知」が目的であることを自覚した後にはじめて「客観学」も位置づき意味をもちますが、ほとんど皆(とくに学者は)そのことの自覚が弱く、客観学や哲学史から演繹して主観性の知に到ろうとする逆立ちした発想=構えに陥りがちですね。

何をいまさらですが、認識論の原理中の原理は、「客観知」ではなく、直観=体験です。そこが原理上、絶対の始発点であることを明晰に自覚しなければ、哲学の理論はみな形而上学と化し、また、「客観学」は実学としての力・価値をもたず、権威の体系でしかなくなります(無用の長物)。

それから、
竹田さんの「資本主義の正当性を極める」という言い方はいかにも彼らしくて面白いですね~。
それで、哲学的に言って「自由」という概念・意味の先行性・根源性はまったく「正しい」とわたしも昔から主張していますが、その存在論的な自由を経験レベルで現実化するためには、制度的・法的に格差が広がらないような工夫(=機会としてのみならず、結果としても)が必要です。これは火を見るより明らかな話であり、存在レベルにおける平等性を生みだすシステムを構築できるか否か?(もちろん旧・社会主義国のような悪平等ではありません)が人類が生き残れるか否か?のキーである(竹田さんは「2050年には滅びる」と言ったそうですが、それほど人類はヤワではありませんので、ご安心を・笑)と武田は確信しています。

武田康弘
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古林です。

「資本主義の正当性」といい、先日の市民アカデミアでの「普遍資産」という言い方といい、最近の竹田さんは『市民社会の原理』を実現するための条件として経済問題(個人間および国家間の平等性)の解決に焦点を当てて積極的に
考え始めているように感じました。

過去のビッグネームの再評価・解釈からもう少し能動的な思考に移り始めているのかもしれません。何しろ、「資本主義の正当性」など誰も考えていませんから。
このあたりの話はもう少し時間を裂いて聞きたかったですねえ。
(人類が滅びる前に誰かが新たな理念を創出するはずだ、というのが竹田さんの意見のようです。)

ともあれ、竹田さん(および強いてあげれば基調報告の見田宗介さん)を別にすれば、あとは聞く価値はほとんどなかったように思います。
これが最高学府の有様でなさけない!
古林
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武田です。

「人類が滅びる前に誰かが新たな理念を創出するはずだ、というのが竹田さんの意見のようです。」(古林)

わたしの考えは、以下のような感じです。

学や知を先立てず、「私」が感受するところから始めるー「私」の心身の思いー「私」のしたいことにつき、そこから出発するという生の原則を明晰に自覚し、実行する。感じ知る=直接経験の世界を見据え、言語による概念化に逃避せず、「私」の心身を裏切らずに生きる。
客観学を集積するー知識量に価値を置くという「強迫神経症」から自他を解放することは、そのための必須の条件。
人間は観念動物なので、知のありようを変えないと何も変わらない。知の目的とは「主観性の知」を広げ深めることにあるーそれをみなが自覚すること、そういう教育に変えることが何より一番必要(絶対条件)。
そのように知のありようを革命しなければ、何事も始まらない。受験知(パターン化された客観知)に支配されている人間に期待することは、到底無理。
もし、「主観性の知」の追求を各人が自由に行えるようになれば、人類の知性は飛躍的に高まり、次々と襲うであろう困難をそのつど解決していくことができるようになる。それが私の確信。
(見田宗介さんの本を読むと、彼が「客観学」の虜であることを感じる。)

とにかく、新たな理念は、学者が出すもの(出せるもの)ではないでしょう。
実は、そのような「新たな理念」の提示はさほど難しいことではありません。一人ひとりの主観性の知の領野が開発されるような転回を成せば、みなの知恵が自ずと生み出すものだと思います。
肝心なのは、古い知の常識ー知を評価する基準(客観知の目的化)からいかに自由になるか?その方途を見つけて、その課題に応えることです。人間の知性のありよう・教育の革命こそが喫緊の課題です。

以上が武田による回答です。ご検討ください。
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明晰な回答ありがとうございます。
『知の目的とは「主観性の知」を広げ深めることにある』
これが絶対条件。これ、すご~くよく分かります。
『受験知には何も期待できない。』
これ、当たり前ですねえ。
『一人ひとりの主観性の知の領野が開発されるような転回を成せば、みなの知恵が自ずと生みだすものなの。』
確かにそうなんだろうなあ、今やっている公務員改革の話もいずれ教育の話に展開してけばいいなあ、と思ってもいます。

竹田さんの場合は多分、【学】の世界でそれができると考えているのでしょう。
『教育』に関心がある、とも言ってましたから。
ただ、この場合の『教育』とは『学』のことであって、武田さんの言う『教育』とはかなり離れた概念だと思います。
『新たな理念は、学者が出すもの(出せるもの)ではないでしょう。』
そうであれば、竹田さんには【学】の世界から半歩踏み出してもらわないと。

古林
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古林さん、丁寧な返信、感謝です。

「知」のありようを根本的に変える、というわたしの主張は、北欧では学校教育でもすでに行っているものです。ただし、わたしが考えているのは、①生活世界の内側からの視点を徹底させること。②五感を鍛え、センスを磨き養うことと「知」を深く有機的に結びつけること。③対話型(先生と生徒、生徒と生徒)の授業による「分かり合い」を広げること。④不断の自由対話の創出によって思考回路を広げ、柔軟化・複眼化すること。⑤自己決定の機会を日常の中に多くつくり、試行錯誤を常態化すること。⑥身の周りの人間、物、自然、社会のていねいな観察により具体的経験から意味を汲みだす能力を養うこと。⑥なんでも自分でやってみることで、現実性と想像力を相互補完的に強めること。等々です。
日本から見ればうらやましい限りの北欧の教育も、「主観性の知」の追求においてはまだまだこれからです。そのことは当の北欧の教育者も自覚していると思います。絶えざる試行錯誤による前進を彼らは自身に課していることでしょう。日本は(韓国や中国も)どんどん置いて行かれます。タケセン一人で立て直すわけにはいきませんので(笑)。

武田
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ソクラテス教室(白樺教育館)で日常的にやってることですね。でも改めて文章化されると、う~ん、こりゃ大変だ!24時間頭を使いっぱなしになりそう(笑)。
でもほかに方法がないのは間違いなさそうです。

ps.『すでに行っている』という北欧の話は次の機会に聞かせてください。先日テレビで韓国の教育事情を見ましたが、日本よりひどくて絶句。

古林
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古林さん

そうですね~。32年間、試行錯誤でやってきたことですね。
言うまでもなく、社会問題の解決や人間のよき生の探求は、宇宙論をやるのとは根本的に異なります。
もし、それらを「有用な知」にしようと思うなら、現実との絶えざる応答、対象と共に生きること=責任をもって関わりながら哲学する以外にはありません。
ただ「書物の読解」で出来ることではないのです。当然ですが、人間の生や社会の現実については、書斎や教場という間接経験の世界では決められません。
理論と実践、思考と行為、行動と批評は、今更言うも愚かですが、両輪です。自問自答と真の自由対話以上に価値あるものはありません。
白樺の哲学と実践(=「主観性の知」を鍛えることにより現実に深く関与する)を更に前に進めたいですね。共に。

武田。
コメント
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