思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

白樺文学館・誕生秘話(2)ブレイクの版画

2009-05-02 | その他
柳宗悦夫人・兼子さんによると、宗悦は晩年になっても、ブレイクの詩を寝言(英語)で呟いていたとのことですが、そこからも分かるように、柳は、詩と絵画(石版画)を融合させた大胆なまでに自由な幻視者であったウイリアム・ブレイクを生涯愛し続けたのです。

当時は、本国のイギリスでもブレイクについての研究は「危険」なことであり、ブレイク賛美など出来る状況にはありませんでした。性とキリストに対する自由な見方は、異端であり、ブレイクは危険人物、ないし狂人とされていたからです。

そのような状況の中で、1914年、柳は我孫子に来てすぐに『ウイリアム・ブレイク』を発表しましたが、この弱冠25歳の若者によって書かれた大著(778ページ)は、後に、世界水準を抜くブレイク論として高く評価されることになりました。

「創造の地―我孫子」というコンセプトの下につくる『白樺文学館』においては、我孫子白樺村の最初の来訪者(※注)であった若き柳宗悦の心を占め(ブレイクが柳か、柳がブレイクか、とまで評されもした。)また、生涯にわたって伴侶であり続けたブレイクを提示することは必須のことです。そこで、わたしは文学館をつくるとき、ブレイクの石版画を探し歩いたのですが、偶然にも2000年春の神田の古書祭りで、驚くほど安価にブレイクの版画集を入手することができました。その版画集(WATER‐COLOUR DESIGNS FOR THE POEMS OF THOMAS GRAY)は、100枚を超えるものですが、そこから一つの章12枚を選び、額装し(柏市のいしど画材店に依頼)、文学館の玄関ホールに飾ったのです。建築会議で建築士たちに版画を見せ、文学館の玄関ホールの壁の仕上げと色は、いぶし銀の額に収めたブレイクの版画に合うように決めたのでした。

ところが、わたしが館長を辞した後、ブレイクの版画は外され、この壁面には竹久夢二(大正ロマン主義の象徴)の絵が数枚飾られることになりました。いまは、白樺派の面々が写った特大の写真パネルが飾られていますが、どちらにせよ、これでは白樺派の魂―精神を見せることにはなりません。内的意味の希薄な「文化」は現代に生きる力を持たず、ただの飾り物に過ぎない、そう言う他ないのです。とても残念です。

日本人画家の絵を展示するならば、白樺同人の南薫造か有島生馬、また著名な画家では白樺派と密接な関係にあった岸田劉生か梅原龍三郎、棟方志功のものとすべきです。もし竹久夢二の絵を展示するならば、大衆的な人気を得、生馬が追悼の辞を述べた画家ということで、参考として一枚、それが良識というものでしょう。現在の「白樺文学館」のように、一室全部を夢二の絵で飾るというのは、元・オーナーであった佐野力さんの個人的な趣味に過ぎず、普遍性を持ちませんし、公共性にも欠けます。


(※注)柳が、我孫子に志賀を呼び(柳が地元の飯泉賢二さんに頼んで土地の世話までした)武者を呼び、リーチを呼んだ(柳家の一部を提供し庭に窯もつくらせた)のです。

写真は、2001年春、開館当時の文学館ホール(ブレイクの版画)


武田康弘
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