思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

裁判員制度のウソー意図的な詐術

2009-05-22 | 社会思想
裁判員制度が始まりました。
以下は、わたしが一年前(2008.5.17)に書いたブログですが、いま見ても全く「正しい」指摘だったと思います。みなさんのご意見・ご感想をお待ちします。

行政権力による詐術ー2008-05-17 10:05:00ー社会思想
(行政権力に引きずられた司法権力)

市民が裁判を行う裁判員制度は、民主主義の理念の具現化=現実化ですが、
これから導入される日本の裁判員制度は、マヤカシというよりも意図的な詐術です。
市民が裁判に関わるほんらいの意味は、行政権力(官の問題)を市民の【常識】に照らして裁くところにあるはずですが、今回の裁判員制度は、刑事裁判にのみに限定されています。

刑事事件(強盗・殺人・強姦 などの個人犯罪)の量刑を決めるのに市民が関与する意味は希薄だと言わざるを得ません。【個人のおぞましさ】を裁判に関わる市民はイヤというほど見せられるわけですが、ほんとうは、個人の持つおぞましさ・悪に比べて、【行政権力が犯す罪】は、桁違いのものです。

【個人の悪】の生々しい提示は、【行政権力の悪】(=検察に悪だと決められたら無実でもまず逃れられないのが現状で、その実態は最近刊行された『冤罪ファイル』に詳しいですが、国連から日本政府に対して改善命令がでる理由がよく分かりますー戦慄!)から目を逸らさせる役割を果たすことになります。

行政権力は、酷い「悪」(例えば薬害で亡くなった方がどれほどか))をなしても裁かれません(行政マンの個人的なハレンチ罪以外は)。冤罪をつくった検事も罪を問われないのです。

このような【民主主義の暗部】(官の絶対化・行政権力の肥大化)を改善するのが、ほんらい裁判員制度の一番の意味なのですが、そこには全く市民を関与させません。刑事事件=個人がどれほど恐ろしいことをするかを生々しく見せることで、【ほんとうの問題】から目をそらさせること、そこに裁判員制度の狙いがある、そう断じても間違いないと思います。形は民主主義の発展、中身は行政による民の支配の拡大。

個人は悪をなす、したがって、行政権力による指導と取り締まりと厳罰化が必要だ。取り締まる側である行政権力は正義だ!?というわけですが、これほどの欺瞞はありません。極めて恐ろしいことです。

【民主主義の原理】の確認がいま何より大切です。あらゆる問題を【詐術・騙しで乗り切る】わが国の現実を変えることは、ふつうの市民みなの得を生みます。真実を生む仕組みをつくることが何よりも求められるのです。

武田康弘
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以下は、mixi内のコメントです。


ヨッシー 2009年05月23日 06:24 タケセンさん

 この制度は、司法権の拡大というべきことと思えます。市民の権利を剥奪することも辞さないという感じではないですかね。

 しかも世論を市民のアリバイと共に利用するという魂胆です。

 許し難い制度です。

 ではでは  
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ざらすとろ 2009年05月23日 13:37

国家が何をしようとも国家は常に正しいということらしいです。
それに対する批判は存在しないものとして扱われる。
「貴様、帝国陸軍を愚弄する気か!!」ということらしい。

明仁が権力を持ってようと、どうであろうと、
これが近代日本という社会のエートスなんでしょう。

日本の司法なんかどうせ最初から終わっているのですが、
衆愚政治の行き着いた最終形態としては非常に興味深いです。
暗黒裁判という言うか、早い話がリンチです。
リンチが正当化されるというのが何とも素晴らしい!!

いつ冤罪にされるか分かったものではない。
こんな国ウンザリ・・・
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タケセン(武田康弘) 2009年05月25日 23:37

ヨッシーさん
「司法権力」は、日本では、「行政権力」の内でコントロールされ、行政の司法担当が、司法権も牛耳っているので、今回の裁判員制度も延長・肥大化した行政権力の拡大なのです。日本では三権分立が極めて不十分で、行政=霞が関が圧倒的な力をもち、民主主義を危うくしています。「行政官僚独裁国家」とさえ言われるゆえんです。したがって、いま国会(参議院)の「行政監視委員会」がその仕事の本質を見据えて、恒常的な行政監視をしようとしているのは、本来は当然の仕事ですが、画期的な「事件」と言えます。



タケセン(武田康弘) 2009年05月25日 23:50

ザラストロさん
民主制国家は、ほんらい主権者は国民であり、わたしたちがお金を出し合って国家をつくっているわけですから、主権者がつくる公論(一般意思)に従って代議者と官僚は行動してもらわなければ困ります。
天皇主権の下での特権官僚の意識が抜けず、自分たちを国民に仕えるサービスマンではなく、国民=主権者の上に立つ「エリート」と思っているようでは、民主主義は永久に現実のものとはなりません。
わたしたち国民=自立した市民がきちんともの申す「自由民権」の運動が必要だと思っています。政権交代はそのための「はじめの一歩」ですね。



コメント (1)
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