思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

他者愛と自己愛

2009-05-18 | 恋知(哲学)
「私」がよろこばしい気持ちでいられるのは、どんな時でしょうか。
私が私の心身に拘(こだわ)っているときは、私に充実やよろこびがきません。
私が、よいものや美しいものに憧れ、それを想っているときに、私は満たされます。
私は、私を目がけるのではなく、よき「他者」を想うとき、はじめて私はよろこびを得ます。この場合の他者とは、他人(人間)だけを指すのでなく、動物や自然であり、また、人間がつくり出した事物=建造物や生活用品、音楽・美術・文学作品なども含みます。
私が私を愛するとは、よき他者、美しき他者への憧れや愛をもっている私を愛するということであり、私の心身だけに意識が向かえば、私によろこびー幸福が来ることはありません。
私だけのよろこびを考えて生きている人は、どこまでいっても不幸です。他者愛ー利他的な心や行為なしに私の幸福もまたない、これは簡明な真実です。

武田康弘
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以下は、白樺MLに寄せられた古林治さんのコメントです。


保守的な人たちは、自由にさせれば人は好き勝手やるような存在なのだといいます。
【私】とはエゴそのものだというわけです。
さまざまな学者グループの方もみな同様の解釈みたいです(=私の心身にこだわる【私】)。

一方、フツーに暮らす人々にとって下記の指摘は確かに自明かもしれません。
『他者愛ー利他的な心や行為なしに私の幸福もまたない』なぜなら日常的にそのように生き、その実体験が思想として内面化されているからです。
ところが、そうした日々の小さな【よろこび】を得る実体験を持たない人々にとっては、この簡明な
真実は、きわめて難解なものとなるでしょう。実体験無しの、言語上の思考のみで導き出せる
発想ではないからです。
この問題、学者さんたちをはじめとするインテリだけの問題として片付けてしまうこともできますが、
昨今の教育を見ると、ことはきわめて深刻です。
幼い頃より詰め込み教育と競争にさらされて育つ子供が増える一方ですから、日常的な体験から
『他者愛ー利他的な心や行為なしに私の幸福もまたない』という自明の感覚、論理が育つ
素地はなくなります。子供たちの【私】もまた【他者を押しのけるエゴそのもの】になっていくほか
なくなるのです。
【私だけのよろこびを考えて生きている人は、どこまでいっても不幸です。】
不幸な人間の再生産を繰り返す愚を何とかしないといけません。
改めて、教育問題の深刻さ、重要性を感じました。





コメント (1)
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