思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

連続の冤罪=検察は市民の敵?―――テレビ朝日

2010-03-05 | 社会批評

いま、「スーパーモーニング」(テレビ朝日)で、4年半前に起きた高知県のバスと白バイの衝突事故について報じていました。
多数の目撃証言で、バス運転手は無罪であることが明白なのに、白バイ隊員の証言のみで有罪とされ、刑期を終えて出所したバス運転手とその家族の闘いを伝えていました。ブレーキ痕を捏造してまで無実の人を罪にする警察、検察、裁判所とは、一体何なのか?

あまりにも明白な数々の証拠(止まっていたバスに猛スピードの白バイが突っ込んだ)を前に、司会者の方も「検察は、物理法則さえ否定するのか!」と驚きと憤りを露わにし、長嶋一茂さんなどのコメンテーターの方も口を揃えて、「警察や検察がこういうことをするのなら市民はどうしたらよいのか?」と怒りの声をあげていました。

この事件については、以前にもテレビ朝日で詳細に報道していましたが、何一つ悪いことをしていないバスの運転手さんを「白バイ隊員のメンツを守るため」だけに罪人に仕立て上げた、というのです。バスに乗っていた25名の生徒、バスの真後ろにいたクルマの運転手(校長先生)、目撃していた市民のすべてが「バスは止まっていた」と証言していますので、バスの運転手が無実であることは、明白です。

「ふつうの市民が警察や検察と絡めば何をされるか分からない」「検察は、多くの無実の証拠を持っていながら罪にする、官僚は人の心を持っているのか」とメインコメンテーターの方が話していましたが、ほんとうに恐ろしいことで、こういうことが頻繁に起きるわが国は、「自由と人権につく主権在民の民主主義」と言えるのでしょうか? 日本は民主主義の敵である官僚=検察庁が支配する国だ、というウォルフレン氏(世界的ジャーナリストでアムステルダム大学教授)の指摘にある「現実」を変革しなければ、よい国・誇れる国にはなれません。

解説者でジャーナリストの大谷さんは、政治家やその秘書への違法な取り調べをしている東京地検特捜部の問題を含めて、「週刊朝日にも書かれているが、これでは戦前の特高警察と変わらない」と話していました。敗戦後、新憲法に則り、一人ひとりの人権を守るための国家になったはずなのですが、世界から「冤罪天国」という汚名を頂戴する事態は一向に改善されません。まさに、市民の公共に反する「公=官=国家」が歴然として存在しているのです。

少数ではあれ、勇気あるジャーナリストが真実を伝えるために努力しているおかげで、ようやくわたしたち市民は「事の真相」の一端を知ることができます。それに基づいてわたしは、この悪(官=公=国家という戦前の思想)と微力ながら闘っていますが、大学人や、多数派のジャーナリストは、自己保身のために見て見ぬふりをしています。そういう人に、「明日を語る資格はない」ことだけは確かでしょう。なんというテイタラク。

わたしは、教育に携わる人間は、間違ったことに対しては、怯(ひる)むことなくそれと闘う覚悟が必要で、それがない人は、われわれの未来そのものである子どもや青年を教育する資格はないと思っています。自分の地位が上がること、自分の自我が満足すること、自分が有名になること、自分が権力に近付くこと、・・心の本音がそこにある人では、ほんとうの教育などできるはずがないのです。【善美のイデアに憧れ、真実を求める心】、それなくしては、人間の生は貧しく醜いものにしかなりません。


武田康弘
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以下は、古林治さんからのメールです。

古林です。

冤罪天国といわれて久しいですが、冤罪には単に能力不足や職務怠慢で起こるもの以外に警察・検察の
政治的意図によって起こる冤罪も少なくありません。件のバスー白バイ事件もそうです。
警察・検察が気に入らなければいつ、誰でも犯罪者として投獄されてしまう可能性があるということです。
これでは私たち市民は安心して生活することなど出来ません。おそろしい!一体この国の主権者は誰なのか!

戦後、鈴木安蔵ら憲法研究会の努力のおかげもあって日本国憲法は主権在民を高らかに謳いあげることが
できました。
しかしながら現実政治のレベルでは、米国CIAの強い介入と支援によって岸信介らA級戦犯を含む戦前の
保守勢力が実権を握ることになってしまいました。自由主義とも民主主義とも無縁な人々による政党に
よって戦後政治が支配され、戦前の亡霊(反民主的思想・制度)があちこちに残ったまま今に到っているのです。
その端的な例が警察・検察です。
明治維新以来、何度か民主制への変革の努力が払われてきました。白樺の人々の活動もこの流れと無縁では
ありませんでした。『明治前半期の「自由民権運動」と大正期の「大正デモクラシ-」とは、日本の自立した市民による民主的思想と実践運動の二つの輝かしい峰です。(白樺文学館の理念より 武田康弘』
が、私たちの社会は未だ民主制社会としては極めて未熟なままです。
しかし、戦後60数年が経ち、実質的には初めてと言える政権交代が起きた今、この変革を進める絶好の機会
です。特に私を含む年配者たちには大きな責任があるはずです。若い世代に負の遺産を残してはなりません。
反民主的な警察・検察(官僚)の体質を変えさせなければいけないでしょう。
もちろん私たち一人ひとりが声を上げ、行動するのです。マスメディアや政治家が当てにならないというのは
言い訳になりません。私たちの社会は私たち自身が作り上げていくというのが近代社会なのですから。
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コメント

なぜ裁判所まで…… (C-moon )

この事件を思うと、「なぜ裁判所まで……」ととても悲観的な気持ちになります。
警察と検察は、必ずしも正義ではないことが解っていますが(一部の警察、検察だと信じたいですが……)高裁も、最高裁も実に簡単に処理してしまっている。高裁など弁護側の証人を採用せず、即日結審していると聞きます。
これでは何のための三審制か疑問です。
基本的人権を守るための慎重かつ公平な審査のためのもので、ここが崩れたら、基本的人権は消えてしまい、権力のなせるままになってしまう。
ある弁護士によると、検察側が提出する証拠はほぼ全面的に採用するが、検察側に都合の悪い証拠は、検察によって提出されないし、裁判所に弁護側が全証拠を開示要求しても、裁判所は応じないそうです。
こうなると、”裁判所は公平である”という当たり前の役割が、現実性のない神話の世界の話になってしまう。
このことはこの事件にも当てはまると思います。

警察の面子、これも公権力の歪曲した姿勢から生まれるもので、到底許し難いものですが、さらに検察はそれに助長し捜査し、公訴してしまう。
権力を持つ警察官や検察官一人ひとりの良心に問うことも、すでに限界がありそうです。
やはり民主主義国家にあまり類を見ない、検察が有する二つの権力である捜査権と公訴権を分離する改革が必要だと思います。
検察は捜査権のみ有し、公訴権は独立した行政機関を作り十分な審査をしたうえで公訴するかしないか決定すること。ここには、民間有識者も加わることが望ましいと思います。

このような現状で死刑制度があることは、とても怖ろしいことです。
警察と検察によって作られる犯罪……
郵便不正事件の公判でも明らかになっていますが、検察のストーリーはもろくも崩壊し続けています。
事件発生時と逮捕時だけ、世論を煽るように報道するマスメディア。
公判の事実をわずかにしか伝えないマスメディアも、冤罪に加担していると言わざるを得ません。
この事件でも、地元愛媛新聞の姿勢は、常に警察と検察に寄り添っていたようですね。

日本の民主主義は、本来なら民主主義を死守しなければいけない大きな力(権力=検察)によって損なわれ続けている。そう実感せざるを得ません。





コメント (2)
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