思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ウォルフレン「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」(「中央公論」4月号)

2010-03-18 | 書評

以下は、「中央公論」4月号のウォルフレン氏による論説『日本政治再生を巡る権力闘争の謎』の要旨です。


山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。・・・・
 ヨーロッパには彼に比肩しうるような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
ところが、日本の新聞各紙はまるで小沢が人殺しでもした挙句、有罪判決を逃れようとしてでもいるかのように責め立てている。・・一体、日本の政治はどうなってしまったのかと、愕然とさせられるのである。日本の主だった新聞の社説は、たとえ証拠が不十分だったとしても小沢が無実であるという意味ではない、と言わんばかりの論調で書かれている。これを読むと、まるで個人的な恨みがあるのだろうかと首を傾げたくなる。日本の未来に弊害をもたらしかねる論議を繰り広げるメディアは、ヒステリックと称すべき様相を呈している。

確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権が現れては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、自民党時代よりもっとたちの悪い行政支配というよどんだ状況が現出することになろう。

検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。・・鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。・・民主党の政治家たちは、今後も検察官がその破壊的なエネルギーを向ける標的となり続けるであろう。

日本の超法規的な政治システムが山県有朋の所産だとすれば、検察の役割を確立した人物もまた存在する。平沼騏一郎である(1867~1952・司法官僚・政治家)。彼は、「天皇の意思」を実行する官僚が道徳的に卓越する存在であることを、狂信的ともいえる熱意をもって信じて疑わなかった。山県のように彼もまた、国体思想が説く神秘的で道徳的に穢れなき国家の擁護者を自認していた。・・オランダにおける日本学の第一人者ウィム・ボートは、日本の検察は、古代中国の検閲(秦代の焚書坑儒など)を彷彿させると述べている。

検察が誰を標的にするかを決定するに際して、彼らの権力は、桁外れの自由裁量によって生じたものである。・・・検察官たちは、法のグレーゾーンを利用して改革に意欲的な政治家を阻もうとする。彼らは、極めてあいまいな政治資金規正法を好んで武器として利用する。・・政治家たちを打ちのめすのは、彼らが関わったとされる不正行為などではなく、メディアが煽り立てるスキャンダルにほかならない。検察官たちは、絶えず自分たちが狙いをつけた件についてメディアに情報を流し続ける。・・検察官はあたかも自分たちが超法規的な存在であるかのように振舞うものだ。

新聞社の編集幹部の思考は、高級官僚の思考とほとんど変わらない。・・日本のメディアが新しい政権について何を報道してきたかといえば、誰の役にも立ちはせぬありふれたスキャンダルばかりで、日本人の未来にとって何が重要か、という点が欠落していたのではないか。

 いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうことは、まさに権力闘争である。これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。しかし、キャリア官僚たちの権力など、ひとたび新聞の論説委員やテレビに登場する評論家たちが、いま目の前に開かれた素晴らしい政治の可能性に対して好意を示すや否や氷や雪のようにたちまち溶けてなくなってしまう。そして多少なりとも日本に対して愛国心のある日本人であるならば、新しい可能性に関心を向けることは、さほど難しいことではあるまい。

(この後の論述は、対米従属の日米関係を変えていこうとする鳩山・小沢政権への期待です。)もし、この政権を退陣に追い込めば、主権国家を目指す日本の取り組みは、大きな後退を余儀なくされることは言うまでもない。

※なお、ぜひ、「中央公論」の4月号で、全文を読まれることをお勧めします。

武田康弘




コメント (3)
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クロマグロ狂騒曲(mixiでのやりとり)

2010-03-18 | 社会批評

以下は、mixiでのやりとりです。


クロマグロ!?庶民は食べませんよ。何を騒いでいるのやら。
2010年03月16日20:24

わたしたちの食卓からクロマグロが消える、とニュースは伝えていましたが、クロマグロという高級魚を食べるのは、庶民じゃないですよね~~(笑)。
ふつうの多くの人は、1年に1回も食べやしない、もちろんわたしも。
だいたいクロマグロは、マグロ全体の10パーセントに過ぎません。
それなのに、ニッポンの食文化を守れ?って、
何のことやらサッパリ分かりません。
どんな文化なのか、どなたか教えてくれませんか?

魚が減ったなら、とらなきゃいい、
それだけのことなのに、どうしてマスコミは、大騒ぎするのでしょうか。
マスコミ関係者も高給取りですから、クロマグロをたくさん食べているのかな?

武田康弘
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コメント

ざらすとろ 2010年03月16日 20:58

今回のご意見には私は異論があります。

一つには政治的な道具として、水産資源の問題を利用しようとしている勢力があるということです。

本当にクロマグロが絶滅寸前なのか疑問があるという話も流れているようですし、クジラと同じように政治的な思惑が大きく絡んでいるのではないかと疑っております。

さらにわれわれにも直接関係してくる問題としては、クロマグロをきっかけに、他の種類のマグロに対しても大幅な規制がかかるということになると、日本の庶民にとって関係のない出来事ではないと思います。やはりこれは危機感を持って認識しなければならない問題であると思います。

捕鯨禁止によって日本の鯨を食べる文化のありかたに重大な影響を受けている状況があるので、マグロも同じようになってしまう危険性もあります。

捕鯨においては鯨の数が増えているというのに、減らない限りにおいてさえも捕っちゃいけないという。

さらに呆れる事に捕鯨を調査捕鯨に限定しているというのに、どこぞのタワケが調査捕鯨船に突っ込んだり、有害な酸をぶっ掛けたりして、きわめて悪質な妨害をしています。

私は、きちんと調べた上で規制を設けたうえで、漁業を続けていくべきだと考えていますし、漁業国として水産資源を守りながら、水産物を採取することは当然の権利であります。
しかし今回の全面禁止がそのようなきちんとしたデータに基づいたものであるのでしょうか?

私もマグロの規制は必要であるという立場をとっていますが、
もし海の生態系の問題を、政治的な都合で事実を捻じ曲げてまでも利用しようとするのであれば、かえって海の生態系の破壊を引き起こしてしまう可能性があります。

むしろこの問題は、遠洋漁業というものそのもののあり方を考え直したところから議論しないといけないのではないかと思います。


二つ目には文化とは庶民だけのものなのかという問題があります。

庶民は食べないから、それが日本の食文化ではないということになれば、庶民が使わないものはすべて日本の文化ではないという話になってしまいます。
もしそうであるとすれば日本の文化財とされるものの大半は文化ではないという話になってしまいます。
文化というものの中には、特権的な立場の人間が権力と財力を注ぎ込んで創り出していった側面はあるのではないかと思います。

世の中には民主的ではないけど、すばらしい芸術があり、
差別的だけれども優れた文学作品があります。

それは民主主義という政治形態が望ましいとか、基本的人権の問題とか、
貧富の格差の是正とか、そういう論理と違う側面があるのではないかと思います。
如何思われるでしょうか?
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あ01-23CR-Z
2010年03月16日 23:52 お邪魔します。

普通に回転ずしで食えますけど。
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タケセン
2010年03月17日 00:30

ざらすとろさん

芸術の世界では、その通りだと思います。

ただ、毎日の食というレベルの話で、クロマグロが日本の食文化だというのは、わたしには意味が分からないのです。それも、太平洋については規制されず、クロマグロが入手できなくなるわけではないので、なおのことです。

この程度のことで大騒ぎするのは、なにか恥かしい気がするのですが。ヒステリー!?
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this boy
2010年03月17日 19:48

http://mainichi.jp/select/biz/news/20100312ddm003020069000c.html

上記の記事を読んで私がおやって思うのは、地中海の
クロマグロの殆ど大部分が日本に輸出されているという
現状です。

欧州からして見れば東の一番遠い国が自分達の庭に上がり
こんで、食べ物を掠めて行くという感情論があるかも知れ
ません。

日本海に回遊しているマグロを遠いブラジルからやって来た
漁船団が根こそぎ奪って行くという印象なのかも知れません。
これはあくまで私の印象ですが。

クロマグロはマグロ消費の1割で確かに高級でしたが最近は
値崩れを起こしてるようですね。
私も食べたという記憶がありません。
クロマグロと書いてあれば記憶に残りますから。
最近では築地に中国からクロマグロを買い付けにくるみたい
ですね。

クジラも食文化というより動物性タンパク質を取るために
食べたわけであり、今はその必要性がないですよね。

(今話題のイルカ漁も然りです)

それなのに調査捕鯨と言って南極海周辺にまで行って、
年間1000匹前後も捕獲する理由が私には判りません。
それをどう利用してるかも判りません。
オーストラリアも自分の庭が荒らされているという悪感情
も抱くでしょう。

http://facta.co.jp/article/200801043.html


文化だから残すべきという意見には賛成しかねます。
文化なんて時代とともに変化していくものだから、あえて
残さなければならない必然性がないと思います。
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ざらすとろ

2010年03月17日 21:56

タケセンさん

高級なものでそうそう我々が食べることが出来ないものも、食文化です。たとえば懐石料理を食べることは、お茶でもやっていないとまず考えられないことではありますが、それでもそれらはれっきとした食文化なのではないでしょうか?
我々が日常食べないからといって、それが食文化ではないというのは違うと思います。

もし日常的に食べていない洗練された料理を食文化として認めないということであれば、洗練されたフレンチはフランスの食文化ではないという話になってしまいます。


私は個人的にはマグロ漁に対する規制は絶対に必要であると考えていますが、それがきちんとした客観的なデータによって裏付されたものでなければならないと考えています。

なぜなら資源保護という観点においても、海の生態系保護という観点においても、その政策を決定する上で必要不可欠な情報を何らかの恣意的な思惑で歪められる事は、海の生態系をおかしくする危険性があるからです。

しかしながら果たして今回の国際会議において客観的なデータに基づいた議論ではなく、どうも政治的な道具としてこの問題が利用されているのではないかという危惧を感じます。
もし、そうであるとするならばシーシェパードをはじめとする環境問題を商売にする卑劣な屑どもの飯の種にされるだけです。

そもそも水産資源の保護や海の生態系の問題を、あのような利権を目的とした輩の恣意的な都合で捻じ曲げてよいはずがない。
そんなものを放置することは逆に海の生態系を破壊する結果になる。

this boyさん

当たり前の話ですが、遠洋漁業というものそのもののあり方をきちんと考え直す必要があり、日本国が世界中の水産資源をとりまくっている状況を望ましいとは私は考えておりません。

そして、この問題は日本国だけの問題ではなく、世界中の国々の問題でもあります。きちんとした水産資源の管理が当然ながら必要であります。

そのことを踏まえたうえで、反捕鯨を主張している側は鯨やイルカがかわいそうだから獲るなという。
しかし増えている水産資源を採るなというのは、漁業をするなということに等しい話で、イルカの問題にしても地元の漁師は本当に迷惑している。

this boyさんは彼らに漁業をやめろというのでしょうか?

もしこのような状況を放置し続ければ、漁業そのものが成り立たなくなる。さらに海の生態系のバランスそのものが非常に危険な状態になります。人間の側である程度、間引いてイルカや鯨を獲って食べるべきであります。

千頭もとおっしゃるけど、一匹だけ獲ってわかる事は限られているのではないでしょうか?

そもそも「千頭も」獲っても、なんら問題が起きないどころか、増えている種類の鯨さえあるということが調査の結果、判明している。
それなのに一定枠の商業捕鯨さえ認めないことのほうがおかしい。獲った鯨はきちんと肉にするのは当然のことです。

ちなみに鯨は日本の食文化です。縄文時代の貝塚からも鯨の骨が出土していますし、昔から食べてきたものです。

引用なされていた記事が事実であるとするのなら、冷凍の鯨肉がダブってしまう様になったのは、捕鯨を辞めろという外圧に屈したことで、良質な鯨肉が入手できなくなったことで鯨肉を高くて不味い物であるという認識を与えてしまったことが原因であるということが伺えます。これは食文化の破壊の何よりもの証拠ではありませんか!!

私は小学生のころ鯨を食べた経験があり、鯨が非常に美味なものであったことを知っています。

もし時代とともに文化も変化していくから、あえて文化を残す努力をする必要はないということになれば、京都や奈良の文化財をぶっ壊して、ショッピングセンターでも造るべきだという話になってしまいます。

さらにいえばご飯と味噌汁じゃなくて、マックがあればいいじゃないかということにさえなってしまいます。
その結果、文化どころか健康までおかしなことになってしまう。

細々ながら食に携わっている人間として、
このような事態は捨て置けない問題です。

誰がなんと言おうと、文化だから残さなければならないものは確実にあります。それは利便性や経済性の問題ではなく人間の尊厳に関わる問題であるからです。
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タケセン
2010年03月17日 22:23

もちろん、懐石料理は素晴らしい食文化です。たまに、豊かな気持ちになってゆっくり味わのは、とてもよいことだと思っています。そういう文化は、残していきたいですね。

しかし、今回の騒動は、そのレベルの話とは違うのではないでしょうか。マグロの一種であるクロマグロの漁獲量を減らすことが、なぜ食文化の破壊になるのか、わたしにはその理由が分からないのです。

食べる量を減らせば済むことで、どのような食材でも少なくなれば、それは同じことです。

ただ、科学的、生態学的な研究と調査、できるだけ客観性に富む検証が必要なのは、全くその通りですので、政治的な思惑を排除して、各国が共同研究すべきですね。
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ざらすとろ
2010年03月17日 22:56

私は規制そのものには反対ではないです。

たとえば絶滅寸前のジュゴンがいくら美味だからといって、
食べるようなことには私は断固として反対です。
それらはきちんと食資源としても守られなければならない。

海の生態系に影響がある問題ゆえに、ただ規制をするにしてもその根拠となる資料がきちんとしたものを基準にして議論をしなければならないと考えます。

というのもこの間テレビを観ていたら、しかしスペインの鮪漁業の業者たちからは、ワシントン条約の対象にする必要性はないのではないのかという声もあります。

しかもスペインではきっちりと鮪を獲る規制があって、規制が守られているのかをチェックする人間を派遣して乗船させています。

しかも鮪漁の業者の中には自主的に独自に調査していて、捕獲禁止する必要がないという結論を出しているようです。もちろん業者の独自の調査ということを差し引いて考える必要はありますが、また同時に乱獲が自分の首を絞めることになることを一番良くわかっているのは、漁業関係者であるということは指摘しておくべきことだと思います。


ただ私が心配していることは、この動きがエスカレートして、政治的な思惑で鮪そのものが全面禁止という話に動きかねないことを警戒しています。鯨の時と同じことを繰り返すのではないかということです。

鯨に関しては種によっては増えているものもあり、逆にある程度間引いて食べないと、かえって海の生態系を狂わせてしまう危険性があるのに、酪酸を投げつけたり、船を体当たりさせたりというような妨害を繰
り返す環境問題を食い物にする破廉恥な輩に翻弄されています。
これは人間としての尊厳の問題です。

参考になるかはわかりませんが、
日本捕鯨協会というところがあります。

http://www.whaling.jp/index.html
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this boy
2010年03月18日 08:52

ざらすとろさん

私は論理的にはあなたの言うことは判らないでは
ありません。

でもタケセンさんが言うように1程度のことを
10で有るかのような誇張した言い方、感覚には
ついて行けません。

漁師をやめろと言うのかとかマックを食べろと
言うのかとかクジラ1匹では調査出来ないという
ような極端な言い方は、北朝鮮がすぐ攻めてくる
とか中国が近いうちに日本を占領するとか煽るような
人達とダブって見えてしまいます。
(あくまで私の感覚です)

私が言いたいのはどんな生物でも絶えず環境に
順応して変化して行かないと生き延びて行けない
のではないかということだけです。
少しずつ環境に順応していくということです。
その中で消えて行く食物もあるでしょう。
その程度です。

ということで誠に申し訳ありませんが、今回の件に
関して私はこれ以上返事をするつもりはありません。
あしからず。
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タケセン
2010年03月18日 10:37

ざらすとろさん、This boyさん

丁寧なコメントありがとうございます。

わたしは、過激な妨害行動を支持したことは全くありませんし、感情的・扇情的・政治的な意見に与したことも全くありません。

それとは逆で、日本人のストイックな性質からくる一方的で極端な意見(今もなお一部のウヨクが掲げる戦前のおどろおどろしいスローガンや、天皇主義に象徴される)には辟易しているのです。

落ち着いて・広い視野を持ち・合理的に考える方が悦びが大きく、得と徳がえられるのではないか、と思っています。「事」に対して、騒がず慌てず、大きく強く考え、断固として主張する、そういう態度がよいと思うのです。


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