思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

原理的次元と現実的・実際的次元の相違ーー信号機というシステムを例に。

2010-03-31 | 社会思想

 わたしたちが何かについて考えるとき、それが原理的次元のことなのか、実際的・現実的次元についてのことなのか、その違いを明晰に意識しないと、混乱して収拾がつかなくなります。

 例えば、ルソーが示した近代社会の屋台骨である「社会契約」や「一般意思」の思想は、原理次元のものです。ルソーは近代市民社会の仕組みを構想するとき、その範を故郷であるジュネーブに求め、それを理念化しました。独立に慣れ親しんでいるために、人々が放埒さとは無縁の自由を持ち、よい習慣の下で暮らしている国民を想定し、そこでの統治の仕組みを『原理』として提示したのです。直接民主制が可能な小国でなければ、原理になりうる思想は提示できないからです。

 したがって、実際に各国の統治をどうするかは、原理を踏まえた上に、個々に考えなくてはいけません。原理はマニュアルとは違うのです。例えて言えば、信号機のシステムのようなものです。クルマがある程度以上の数になったとき、信号機が考え出されましたが、そのシステムは原理であり、交通量が多い場合はどの地域でも必要となります。すべて立体交差になるなど交通環境が大きく変わるまでは、信号機のシステムという原理をなくすことはできません。ただし、どこにどのように信号機を設置するかという実際は、状況によっていろいろですから、個々によく検討しなければなりません。

 フランス革命におけるロベスピエールの独裁政治を批判するのに、近代民主主義国家の原理である「社会契約」の思想や「一般意思」による政治まで否定したら、話はメチャクチャです。JSミルやトクヴィルが、国家と個人を媒介する中間的な制度の重要性を言ったことは、原理の批判や否定では全くありません。トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」における多元主義的な思想(力のある地方政府や教会や結社などの重要視)は、多民族・巨大国家アメリカにおける民主主義の実際に寄与しましたが、それはもちろん「社会契約」の否定とは無縁の話ですし、「一般意思」(=議論によりつくられる市民の公共的意思)の否定でもありません。ただしトクヴィル以前の社会思想は、中間団体を封建制度の名残と捉えて批判しましたから、その点においては異なります。

 曲解・誤解の上での批判もありますが、それは論外としか言えません。またルソーは、民主主義の実現がいかに困難かを強く意識し、人々が扇動者の手に堕ちる危険に警鐘を鳴らしてもいます。

 ともあれ、大事なのは次元の相違をいつも意識して見、考えることです。次元を混同すると、荒唐無稽な話にしかなりません。


武田康弘


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