思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

受動性の哲学から能動性の哲学へのコペルニクス的転回が必要です。

2010-03-08 | 恋知(哲学)

1970年代の後半から30年以上にわたり、日本社会は、受動性の哲学が支配してきました。

世界的にサルトルの能動性―自由と強い責任の哲学、参加・出会い・呼びかけの「主体的行動」を呼び覚ます哲学は嫌われ、ハイデガーの徹底した受動性の哲学が主流となり、その延長線上で哲学もまた「一般的正解」を求めるひとつの学に変質したのです。

哲学することが、大学知の一つにすぎなくなり、教授が講義する哲学を受動的に学ぶのでは、能動的な生を呼び覚ます哲学は死んでしまいます。哲学にまで「正しい答え」を求め、それを提供してくれる他者を望むのでは、哲学の意味は大きく削がれます。

哲学で確かな答えの出る可能性があるのは、思考の原理次元のみです。それをしっかり学ぶことは大切ですが、それはあくまでも前提にすぎません。そこで終われば、ただ受動性の強い心と頭がつくられるだけで、害あって益なしです。「一般的に正しい答え」を求めて生きると、受動性の罠にはまり、一般性の海に沈んでしまいます。

受動性の存在論に支配されていると、よろこびも、悲しみも、成功も、失敗も、意味の薄いものにしかなりません。自分という中心から立ち昇る世界が弱まるために、いつも他者の目を気にして一喜一憂するだけです。参加・出会い・呼びかけを可能とする能動的な存在論によって生きなければ、人間は生の輝き・悦び・充実を得ることはできないのです。

物や単純な事象については、それらの意味の認識は受動的なのですが、自分の生の意味や社会の意味を受動的に認識するのでは、人間存在を昆虫の存在と同次元に捉えることにしかなりません。意味は、向うからやってくる、ではなく、「私」が生活世界の具体的経験からくみ取り、生み出すのです。意味は受動的認識ではなく、主体的な創造でなければなりません。実存次元の探求においては、意味は身を持って生きることではじめて意味となるのであり、受動的に意味が存在するのではないのです。したがって、ハイデガーなどに見られる受動性の存在論は、哲学の自殺としか言えません。

われわれ人間は、主体的に生きた時はじめて生きることの悦びを感じ、自他と世界は色づくのです。人は、主張し、行動するときには、失敗も悲惨もすべて意味づき、価値を持ちます。しかし、受動的にしか生きなければ、世界の中の部品にしかなれず、「私」の固有の価値は消え、生きる意味は希薄になってしまうのです。


武田康弘
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コメント

受動性の哲学について想うところ
(古林 治)
2010-03-08 21:21:18

受動性の哲学から能動性の哲学へ。
異論などまったくないのですが、想うところを少し。

自分の考えをクリアにし、表明する。
自分が所属し、生活している集団や社会について考える。議論する。合意を形成する。変革を試みる。
確かに70年代の後半といえば、上記のような行為が古臭いとかかっこ悪いというムードが蔓延してました。
そうした奇妙な場の空気がいつの間にか醸成され、その空気を読むことが優れた人、という感じでした。今もまったくその通りですね。異を唱えれば変な人と指差されます。
【奇妙な場の空気】とは、一体何なのでしょう? 多くの場合、閉鎖的な既成の集団を維持し、受け容れるための暗黙のルール(タブー)のように思えます。そうだとすると、それは思考の停止と集団の維持、そしてその集団への従属に快楽する徹底した受動性の哲学そのものといえますね。

その昔、西欧・東欧といった比較的恵まれた国だけでなく、アジアを旅してみても、どの国の子供たちも日本の子供たちより目が輝いていました。
彼の国々には希望を持って生きる、行動する。それが基本にあったように思います。
片やうつろな目をした人々が多いこの国は一体どうなっているのか、と強く感じました。
よく考えてみれば当たり前ですね。一人ひとりは皆異なり、それなりの生があるはずなのに、なぜか平均的な正しい生き方を他者によって強いられ、窒息寸前になっているのですから息苦しい表情になるのも当たり前か。受動性の哲学の帰結、一般性の罠にはまった結果に違いありません。

昔の人に比べてスケール感のある人間が少ないと言われる理由もこの辺り(受動性の哲学の蔓延)にあるのでしょう。
能動性を失えば人間はみみっちい生き方しか出来なくなるのも当たり前です。

問題の根はおそろしく深いですが、私たちの生き方を根源的に見直す必要があるのは間違いないと思います。
能動性の哲学へと。

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Unknown (青木 里佳)
2010-03-10 00:08:13

青木です。

これを読んであるイメージが浮かびました。

デートのプランを立てる若い男性。

デートで着る服、待ち合わせ場所、食事はお洒落なあのカフェで、食事の後は映

画、映画はロマンスものにする、映画の後は大人気のアイスクリーム屋で映画の

感想を語る・・・・と決めてデートの支度をした。

相手の女性と待ち合わせをしたのはいいけど、女性が乗る電車が遅れて時間通り

に来れない。女性がやっと来て、食事へ。でもあのお洒落なカフェの前に大行

列、1時間は待たされそう。それでもそのカフェで、と決めてたのでプラン通り

に進めることにした。

やっと座れて食事にありつけた。お腹がいっぱいになったところで映画を見に行

こうと思ったが、カフェの前での行列と食事に時間がかかってしまったので映画

は間に合わない。

どうしよう、待ち合わせの時からプランが崩れてしまってる。映画も駄目。じゃ

あ何をしよう・・・?

プラン通りにいかなくてイライラ、パニックに陥ってしまい、相手の女性も気分

が悪くなる。

「頼りないのね。あなたと一緒にいても楽しくないわ」と言われ、ショックを受

ける。

そしてプラン通りに進まなかったのは遅れてきた君が悪いんじゃないかと責め、

喧嘩になる。

こんな光景が思い浮かびましたが、特に今の若い男性にありがちだと思います。

そして女性も無意識のうちに男性に決まったデートプラン・コースを期待してい

ます。それが叶わなかった時、その男性に失望するか怒る。最悪の場合、喧嘩に

なってしまう。

この原因は「受動性」だと思います。

決まったプランを立てないといけないと思い込む男性、決まったプラン通りじゃ

ないと嫌と思う女性。受動という状態で生きるとこういう事態に陥るでしょう。

では「能動性」なら?

決まったプランにこだわらず、臨機応変にああしよう、こうしようと切り替えて

はその状況を楽しむでしょう。プラン通り行かなくてもイライラしたりパニック

に陥ることもないですし、女性も男性に期待するのではなく、自分からも積極的

にこうしようと提案し、デートの中身を充実させていけばお互い楽しく過ごせます。

今回はデートを例にしましたが、この例に限らず、全体から見て、能動的に生き

ている人は少ないと思います。

決まったこと、やり方、考えにとらわれていて、常に「こうしなきゃ」という強

迫観念に取りつかれて生きている人が大多数だと思います。

そうやって生きていると、本来持っている良さや魅力が外に出ていかず、決まり

きったやり方や考えに支配されてしまいます。そしてその決まりきったことが

「常識」として植え付けられ、周りにもこのような「常識」を求めます。

その「常識」が広まり、多くの人がその「常識」思考になり、受動的になります。

そして自分達が受動的になっていると気付かないで生きているのです。

能動的に生きれば、人生がもっと楽しく充実したものになるんじゃないかなぁ。

みなさんでこの話題、広めて、へんな哲学の流れを変えたいですね。

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大学の哲学のつまらなさ (楊原泰子)
2010-03-10 23:24:55

「受動性の哲学から能動性の哲学へのコペルニクス的転回が必要です。」を読んでの感想です。

学生時代の哲学の授業はほんとうにつまらなかったです。理論武装をした「哲学オタク」な教授の、原理次元での深い話はなく、ただ知識の羅列に過ぎない授業は、私自身が未熟で無知だったこともあるのですが、「能動的な哲学」にはなりようがなくて、ひたすら単位のための苦痛な時間でしかありませんでした。

武田さんに出会って、「ほんとうの哲学って人生の日々を豊かに生きるためにこんなにも必要なものだったんだ!」と気付かせてもらった時が、それこそ私にとってのコペルニクス的転回でした。

決して難解な言葉で議論したり、哲学史を羅列したりするのが真の哲学ではないことに気付いた時に、特定の宗教やイデオロギーに納得できないでいた私は、生活世界の中でああでもないこうでもないと自分自身が深く考え、周りの人と語り合い、ほんとうに正しいこと、良いこと、美しいことを求めながら、普遍の価値を目ざして生きることこそが、何よりも素晴らしい見事な生き方であり、そういう人々が総体として社会をよい方向に変えていけるのだということを強く感じることが出来ました。

一般的な正解などなくて、日々考え直し練り直しながら、生きていくのは楽なことではありませんが、こうあらねばという束縛から解放され、集団や組織の中でも議論の行方を愉しむ心のゆとりが生まれました。

でも子どもに対しては保守的な意見を言ってしまうことがよくあります。長い間この国の一般性の罠にはまって生きてきたひとりである私は、どこか人と同じであることの安心感から抜け出せないでいるのかもしれません。また、集団のリーダーを務める時に、突出した発言をする人がいる時、その意見を大切にしなくてはいけないと思いつつも、その意見の良し悪しにかかわらず、「参ったな!やっかいだなあ!」などと心の隅で思ってしまうこともあります。

受動性の罠にはまった人々の集合である国で、ひとたび危険な方向に導くカリスマ性をもつ扇動的な為政者が登場すればどのように怖ろしい結果を招くかは歴史を見ても明らかです。今の社会状況をみながら、子どもたちの時代にそういうことがあるのではないかと恐れています。平和も決して受動的に得られるものではありませんから。






コメント (3)
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