思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

よい生とは?(恋知=哲学の生)

2010-03-29 | 恋知(哲学)

人は幼いころは、横溢する生命の力だけで生きられます。迷うことがありません。ただ目の前に広がる世界に嬉々とした好奇心を持ち、関わります。

ところが、思春期になるころから自分の生を意識するようになります。生き方を考えますが、答は得られません。

宗教は明確な生き方を示します。しかし特定の宗教に従って生きるという選択は、多くの人はとれません。

右往左往しながらなんとか自分の生の方向を定めようとしますが、いつも世間の価値観を気にして自分の生き方ができません。世間と自分が葛藤し、何がよいかが分からないのです。

世間の示す価値に従って生きようとすると自分の存在価値は小さくなり、昆虫のような生き物のようで、生きる意味が感じられません。けれども自分の心に従うのは孤立するようであり、また「正しさ」から遠くなるようでもあり、とても不安です。

さあ、どうしたものか。
結局は、みんな一緒という集団同調の受動的な生き方に陥ることが多いようです。

宗教的な絶対ではなく、周りに合わせるという受動態でもない生き方はあるのか。
それが恋知=哲学の生です。哲学と言っても哲学書を読むのではありません。「なにがほんとうなのか?」を探求する生き方のことです。生活世界の具体的な経験に照らし、自分の頭で考える習慣をもつ生き方です。

これは誰でも出来ることですが、なかなかそれが行われないのは幼い頃からの○×テスト(客観テスト)で育てられるわたしたちは、「正しい答」が決まっていて誰かがそれを教えてくれると思い込まされているからです。早く正解を導く技術を学ぶことが勉強だと信じているために自分の頭で考える習慣がつくれず、その力がつかないのです。

だから「なにがほんとうか?」を探求する心になれず、知っているかどうかの暗記競争になり、答の決まっている問題の解法をパターン化して覚えるだけになってしまいます。

ところが、自分がどう生きるのがいいかには正解がありませんから、覚える能力をつけても、パターン認識を身につけても、どうしようもありません。生活世界の具体的な経験に照らし自分の頭で考える習慣をもつ生き方をすることで、なにがほんとうかを考える力を養うしかないのです。これが哲学することのほんらいの姿です。宗教的な絶対ではなく、誰か「偉い人」?のつくった「主義」を信じるのでもなく、思想の本を読んで覚えるのでもなく、自分の五感をフルに用い、自分の心身の声をよく聴き、自分の頭で能動的に考え、自己決定する生き方、それが哲学する生なのです。とても素敵な生き方ではないでしょうか。

なにがほんとうなのか? ほんとうによいこと・ほんとうに美しいことは何か?
それを生活の中で問う習慣をもつこと、それこそが人間のもっともよい生き方・もっとも優れた生き方ではないか、わたしはそう思います。恋知=哲学の生へ!

2010.3.29  武田康弘

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「ディベート」は有害な言辞行為です。「恋知=哲学的対話」をしましょう。

2010-03-29 | 恋知(哲学)

ソクラテスは、ソフィストと呼ばれた人たちの言論・弁論術(ディベート)を否定しました。
そこからフイロソフィー(恋知=哲学)が誕生したのです。

「勝ち負け」の言辞行為ではなく、「自我の拡張」の言辞行為でもなく、「アイデンティティー補強」の言辞行為でもない。

そうではなく、「なにがほんとうなのか?」を目がけての問答的思考法による対話が求められる、というわけです。それが「よく・美しい」生に憧れる恋知(哲学)の営みです。

人間の生によきもの・美しきものをもたらす何よりも大切なエロースの営み、それが「恋知対話」ですが、それを可能にするためには、互いに自分自身を開き、誠実に、正直に語り合うことが条件になります。目がけるのは「真実」であり「勝負」ではありません。

このような開かれた思想と実践であったので、ソクラテスの問答法による恋知は、宗教も主義も、国も時代も超えて普遍的な営みになったのです。

わたしは、狭くエロースに乏しい「ディべート」ではなく、善美をめがける「恋知」(哲学)の営みを習慣づけたいと思っています。


武田康弘




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