思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

石原東京都知事の意向ー議論禁止の通達は憲法違反です。土肥信雄さんへのエール

2010-07-02 | 社会批評

石原慎太郎都知事の意向により、職員会議での議論を禁止する通達を出した東京都教育委員会の行為は、民主制の基本原理を逸脱していて、明白な憲法違反です。しかし、露骨な憲法違反の東京都の行為に対して、民主主義の原則の理解に乏しいマスコミ関係者の反応は鈍く、一人で闘う元・三鷹校長の土肥信雄さんへの支援は弱々しいものです。教え子たちの熱烈な土肥コールとは対照的ですが、わたしは、わが国に民主主義をしっかり根付かせるには、この問題は極めて重要だと考えます。


以下は、「公共哲学メーリング」へのわたしのメールですが(一部加筆)、この場でもまた異論・反論を嫌がり、積極的に討論する文化がありません。ほんとうにわが日本はどうなるのでしょうか。


「言論の自由」という基本がない教育機関、わが日本の精神風土は、本質的に非民主的であるようです。
【自由で対等な討論】というほんらいの民主主義を体現する文化をわが国に根付かせるには、まだまだ多くの努力が必要です。

「ディベート」(ソフィストの営み)を否定したところに生まれたのが「哲学」(ソクラテスの営み)だということさえ知らない人が多いために、なにがほんとうか(=善美のイデア)を求めて議論する厳しいエロースの世界が拓けないのですね。

ハーバードのサンデル教授の授業(弁論ショー)には関心をもっても、ほんとうの公共哲学―【具体的経験を自分の頭で考え⇔互いの自由・人権を認め合うことを基盤にして忌憚のない討論をし⇔自分の責任で判断して決める】―を実践することがないようです。

大衆の感情的判断=500人の陪審員制の裁判で死刑になったのがソクラテスですが、21世紀の日本でもまた排除の正当化=土肥さんの訴えは退けられてしまうのでしょうか。それはあってはならないことですが・・・・

せめて、公共や哲学に関心のある人々だけでも、ヴォルテールの言葉を実践してほしいと願います。「わたしは、あなたの言うことに一言も賛成できない。しかし、あなたにはそれを言う権利がある。わたしは、その権利を死を賭けても守るつもりだ。」
わたしは、小学6年生のとき読んだ『社会のしくみ』(美濃部良吉編)という図鑑本に載っていたこの言葉に心底感動し、それ以降46年間、座右の銘にしています。


武田康弘

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公共哲学MLは民主主義に反する (荒井達夫)
2010-07-02 23:57:36

私は、参議院調査室主催の「新しい公共について考えるパネルディスカッション」(2010.6.24)で、「公・私・公共三元論は、民主主義に反する思想である」とパネリストたちが述べたことを公共哲学MLで紹介し、この議論の重要性について指摘しました。ところが、MLの管理者である小林正弥教授(千葉大学公共哲学センター長)は、私の発言が「公共哲学宣言」の趣旨(三元論)に反し、参加者から苦情が出たとの理由で、私を除名処分(=登録削除)にしました。公共哲学MLという思想・良心・言論・表現の自由が最も重んぜられるべき場所で、このような野蛮な行為が現実に行われたことに、私は大変な衝撃を受けております。

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当事者として。 (タケセン)
2010-07-03 12:09:01

わたしは、当日のパネラーのひとりであり、
シリーズ『公共哲学』20巻(東大出版会)の最高責任者である金泰昌さんとの『哲学往復書簡』の中で、公と公共を分けるべきという「三元論」を批判した人間ですが、金さんとは「共に哲学する」友人です。

「公と私とを媒介するものとしての公共を考える」という思想の提唱者である金泰昌さん自身は、公共哲学とは特定の主張ではなく、三元論に拘るのではおかしい。大事なのは、異論の存在であり、異なる者との議論だ。公共とは、特定の人々の専有物であるはずがない。なぜ、日本では異質の他者を認めず、排除しようとするのか?制圧・排除・同化というのは、人間を不幸にする、と繰り返し力説しています。わたしとの電話でも、「公共的良識人」紙でも。

わたしは、三元論の見方は、現実を見るのにはピッタリであり、支持していますが、それが社会の原理的な思想となったら大変です。
福嶋浩彦さんも当日、強調していましたが、公(おおやけ)にしろ公共にしろ、それは「市民の考え」のことであり、役所・官が公や公共ではないのです。官は、「市民の公共的な考え」を実現する手段・道具に過ぎないのであり、それ自身が公とか公共だとしたら、民主主義ではなくなります。

こういう簡明な原理を明晰にしないと、民知、民力の民主主義は実現しません。ふつうの人々の良識につくのが民主主義であり、「学」にせよ「官」にせよ「政」にせよ、「エリート」による政治は、脆弱な人間と社会しか生まないのです。世界最高の科学者や哲学者を集めたナチスドイツや、天皇主義の日本や、テクノクラートと呼ぶ優秀な官僚によるソビエトの政治が無残な結果に終わった歴史の教訓を忘れてはいけません。

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公共哲学ML・除名の理由 (荒井達夫)
2010-07-03 17:29:21

私は、以下の文章を公共哲学MLに流して、除名されました。極めて公共性の高いものと思われるので、公表することにします。

荒井達夫です。

私は、「新しい公共について考えるパネルディスカッション」で、司会者として、「公・私・公共三元論」の妥当性を問題にしましたが、その際、三元論者であるという稲垣久和さんの新著「公共福祉という試み」にある次の記述を読み上げ、これと「新しい公共宣言」にある添付の記述の関係について、パネリストに意見を聴きました。

「「公共」に比べて、日本語の「公」(おおやけ)はあまりに漠然としていて、社会科学的な用語としては定義しにくい言葉なのですが、まずは「お上」という意味、しいて政治の仕組みのなかで表現すれば国家機構、政府、自治体など制度化された強固な組織を指している場合が多いと思われます。以下このような意味で、「公」という言葉を「公共」とは区別して使います。」(稲垣久和さん)

鳩山前総理の施政方針演説では、「これまで「官」が独占してきた領域を「公(おおやけ)」に開き」となっていたのですが、「新しい公共宣言」では、「これまで政府が独占してきた領域を「新しい公共」に開き」となっており、「公」と「公共」の区別もなくなっているため、特に「新しい公共円卓会議」の中心メンバーで、「新しい公共をつくる市民キャビネット」の共同代表でもある福嶋浩彦さんに、その辺の話をきちんと聞いて、「新しい公共」の基本的な考え方を確認しておきたかったのです。

福嶋さんの回答は、

「公」も「公共」も市民の意思でしかなく、「官」の「公」も「公共」も、あってはならない。「官」は、市民の意思を実現する道具に過ぎない。 「公」と「公共」を分ける考え方(三元論)は、民主主義に反し論外で、「新しい公共」にならない。

という非常に明解なものでした。

福嶋浩彦さんの発言は、「公・私・公共三元論」が「新しい公共」を実現するために有害な思想であるというに近い内容でした。そこで、私は、社会思想として「三元論」をどのように評価すべきかを竹田青嗣さんに問いました。

竹田さんの発言は、「三元論」は近代市民社会の原理に反する極めておかしな思想であり、民主主義が成り立たない、という明解に言い切った内容でした。

なお、竹田さんは、近代市民社会の原理を提示した思想家、特にルソーとヘーゲルが重要であり、その原理を超えるアイデアは存在しないと述べましたが、これは、私が、竹田さんの著書「哲学ってなんだ―自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)」を紹介したことを受けた発言でした。

私が竹田説を紹介したのは、この小さな哲学の入門書に書かれていること、とりわけルソーの社会契約や一般意思についての説明が、非常に明解・妥当であり、さらにそれが、主権在民に立脚した国家公務員法96条「すべて職員は、全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」を解釈する際の前提になると考えているからです。

以前、大阪経済法科大学の市民アカデミア2008で、竹田さんが行った講演「市民社会の哲学的基礎」を聴いた人事院の若い企画官が、「公務員研修で行うべき重要な内容」と述べていたことがありましたが、今回のパネルディスカッションでは、人事院の現職の局長(前公務員研修所長)が参加し質問もしていたので、この点について相当に理解が広がったのではないかと考えています。

郷原信郎さんには、「新しい公共」と官の意識改革、これとコンプライアンスの関係、また、官の改革におけるキャリアシステム問題の重要性等について聞きました。

郷原さんは、コンプライアンスとは単なる法令の遵守ではなく、社会の要請に応える法令の解釈運用でなければならず、また、社会の要請が何であるかには正解はなく、それを考えるためには、本当に大切なことは何か、何が重要なのかを、自分の頭で考え、問い、議論を続けていく姿勢が必要であると、述べていました。とても分かりやすい言葉での説明でしたので、聴衆の誰もが十分に理解できたと思います。

行政監視は、「法律が誠実に執行されているかどうか」の監視ですが、郷原さんの話は、法律の「誠実な」執行とは何かを考えるについて、大きな示唆を与えてくれるものでした。

また、郷原さんは、武田さんの意見に深く共感して、正解を探しているだけの受験知人間ではなく、現状に疑問を持ち、常に自分の頭で考え、議論し、決定することができる人間を育てなければ、真の民主社会は実現できない、という武田説について、さらに賛同する旨の意見を強調していました。

今回のパネルディスカッションは、それぞれ仕事も生活も全然違うパネリストたちでしたが、「新しい公共」について考えるうえで、本当に大切なことは何かを議論する方向へと話が自然に流れ、まとまっていきました。

サンデルさんのディベートの訓練のような議論ではなく、物事の意味と価値を問う本物の哲学の議論に近づいた感じがました。(それが、写真の皆さんの表情に現われているように思います。)


コメント (3)
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