思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「感じ、想い、考える」 (受動性の哲学は哲学ではありません)

2012-01-10 | 恋知(哲学)

わたしは、毎度毎度、自分が「感じ、想い、考える」ことの必要を強調してきました。これは、よく受動性を働かせることで、イキイキとした能動性を生むための必須の営みだからです。

「感じる」
痛い、気持ちいい、楽しい、嬉しい、悲しい、辛い、・・・・・「感じる」というのは、受動です。わたしが意識的に生み出すという能動ではありませんから、感じる、というのは、ほんらい「感じられる」ということです。

「想う」
想うというのも「想われる」という受動のようですが、自覚的に「想う」こと、想像力を働かせようと意識的に取り組むこともありますから、受動、能動の両面があると言えます。

「考える」
けれども、「考える」は、多くの場合、自覚的に取り組む作業です。
「悩む」というのは「悩もう」と意識的に悩むのではありませんから受動ですが、「考える」というのは、意識的・自覚的な作業ですから、能動性の世界です。

考える、というのは、向こうからやってくる、という受動性の世界ではなく、自ら生み出そうとする能動性の世界です。そして、この能動性こそが、人間が個性をもって自分らしく生きることを可能にします。

現代(1970代後半以降)は、戦前のハイデガーに始まる受動性の哲学が支配的となっていますが、それは人間性の開花や進展とは逆で、人間性の縮小・退歩をもたらす活字主義哲学でしかありません。しかし、現代哲学(理論や書物としての哲学)は、この路線にハマり、受動性の哲学という哲学ならぬ理論趣味に陥っているのが現実です。哲学とは書物の読解をすることではない、という原事実にもういい加減に気づいたらどうか、とわたしはいつも思っていますが、泥沼にハマったままですね(笑・困・愚・鈍)。

学者たち、物書きたちのこの鈍さにはほとほと呆れます。笑うしかありませんが、悲しく愚かな現実です。


武田康弘
コメント
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