わたしは、幼いころより今日まで、毎日空を見てきました。
青空と雲はとくに好きです。
小学高学年から天文少年だったこともあり、夜、晴れた日の星空を見ない日はありません。もうじき半世紀になります(笑)。
歩いてもいつも空を見ています。
これは、意識することなく数十年間続けてきたことですが、
最近、この習慣は、人間が生きる上で何より大切な営みではないのか、と思うようになりました。
さまざまな物事・事象を見る時、わたしは、これまでの常識や権威者の言に囚われることが少ないのですが、それは、いつも空(遠く・無定形)を見る習慣がもたらしているのではないか、と思うのです。
いま・現実・眼の前、のことから距離が取れず、ベッタリくっついていると、現実は「図」として浮かび上がらず、現実の中に埋没するだけです。そうなると、目先しか見えない現実主義者=即物主義者に陥ります。現代の受験主義の勉学は、そのような近視眼的な人ばかりを生んでいます。豊かな教養や人間味のない「競争主義」の貧しい人をつくりだすのです。
「いまを知るためには、歴史を知ればよい」のはありません。歴史オタクと言われる人たちや書物に頼る博識の人を見ると、「過去」に縛られ、イマジネーションに乏しいのです。空=遠く・無定形なものを見る習慣をもたないと、過去も書物も知識も「図」として浮かび上がらず、ベタっとした平板な意識しか生まないようです。遠くを見る習慣がないと、せっかく努力して知識を得ても、それが現実をよく見るために役立つことがなく、逆に、現実に縛られる心身を生むだけではないか、わたしはさまざまな経験から、そう確信するようになりました。
さらに言えば、この空(遠く・無定形)を見る習慣は、宇宙の時間という想い・感覚と一つになって、一神教(キリスト教、イスラム教、明治政府作成の天皇教、国家主義のイデオロギー)や超越項を置く哲学(宗教化した哲学)を不用にするもの、とわたしは思うのですが、その話しはまた改めて。
武田康弘