思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

国家主義(天皇尊敬)の教育を進めるために「維新の会」と安倍元首相が連携。

2012-02-27 | 社会批評

いよいよ、元首相の安倍氏は、大阪の『維新の会』と連携し、【天皇中心思想に基づく国家主義教育】を目指すとのニュースが流れました。

以下は、安倍氏の主張ですが、山県有朋らの明治の保守政治家がつくった「近代天皇制=国体思想」の焼き直しです。

「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタスペトリーだ。日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。・・一つの家系が千年以上の長きにわたって続いてきたのは、奇跡的としかいいようがない。・・特攻隊の若者たちは、自らの死を意味あるものとし、自らの生を永遠のものにしようとする意思もあった。それを可能とするものが大義に殉ずることではなかったか。彼らは「公」の場で発言する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。」(安倍晋三著『美しい国へ』)

そして、彼の思想に合うように教育を改革するために、教科書を変える、と主張します。

安倍氏のこの本(文春新書)は、『靖国神社』の売店に平積で売られていたのですが、同じく売店の一番前にうず高く積まれていたパンフレット『靖国神社を考える』(小堀桂一郎=東京大学名誉教授)には、以下のように記載されています。

 「『私』というものを『公』に捧げて、遂には命までも捧げて『公』を守るという精神、これが『忠』の意味です。この『忠』という精神こそが、日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力にあたるものだろうと思います。ですから、『私』という存在を『公』の為に捧げて働き、遂に命までも捧げて『公』を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場でから考えますと、やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。
 出征する兵士たちにとっては、自分たちがたとえ戦死してもあのお社(靖国神社)にまつっていただける。あのお社は天皇陛下も御神拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったというだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。・・・国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。」(小堀桂一郎)


また、安倍氏のブレーンの中心者である八木秀次氏は、ちくま新書の『反「人権」宣言』で次のように書いています。

 「人権の概念に本来的に欠けている、歴史・伝統・宗教・共同体といった要素、に目を向けて、それらに照らし合わせて自己の主張の妥当性を検証してみなければならない。・・わたしたちは、道徳教育なき「人権」教育に邁進してきた。そのために今日、社会が荒廃し、液状化を招いたのだと気付くべきではないだろうか。
 私たちはもう「人権」という言葉に怯える必要はない、・・「人権」という言葉に惑わされることなく、それぞれの主張の妥当性を歴史や伝統に根差した知恵、我々の社会の道徳や倫理、共同体における相互の人間関係、これらを総合化したものという意味での『国民の常識』に照らし合わせて個々具体的に判断すればよいのである。
 本書がその書名を「反『人権』宣言」としたのは、そのような意味で今日の私たちが「人権」の呪縛から解放され、【国民の常識】に還るべきことを説くためである。」(八木秀次)



上記の彼らの思想(国体主義)を知れば、彼らが、明治天皇に捧げられた『君が代』を歌うことを執拗に強制する理由がよく分かります。わたしたちふつうの市民は、彼らのアナクロニズムの国家主義を終わらせ、「一人ひとりの人間存在の対等性」と「一人ひとりの自由と責任」を前提とする【人権思想】を深める教育を進めるために、【非暴力不服従の闘い】を開始しようではありませんか。わたしは、「愚か者」たちによる支配を許さないために、断固として不退転で闘います。


武田康弘
コメント (2)
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