思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わが日本人の集団ヒステリーは、ほんとうに困りものー小沢氏の政治生命を断つまで裁判を続ける!

2012-05-10 | 社会批評

 

わが日本人は、ほんとうに集団ヒステリーだな、とつくづく思います。

どこまで追いかけ回せば済むのか?

どこまでイジメ続ければ済むのか?

これは、わが日本人の国民性なのでしょうか。

何の法律を犯していなくとも、「罪人=悪人に違いない」という空気をいったんつくられたら、そこから逃れられない集団ヒステリーの国。

 根拠がなくても、証拠はなくても、黒・クロ・くろ。

国家権力(強権をもつ検察庁をはじめとする官僚組織の集団意識)とマスコミの共同戦線がつくる空気で、みなの心身は金縛り。

「肩書き人」(東大卒とか官僚とか天皇家に象徴される由緒正しき家系とか)は無条件で尊重されるが、ひとりの人間としての実力者は、胡散臭い者と見られ、嫌われる。日陰者にするまで、あるいは死ぬまで「許さない」。

国家権力が総力を上げて(検察史上最大のお金=税金をかけて)捜査したにも関わらず起訴できず、検察審査会の強制起訴による裁判でも「故意や共謀は認められない」として無罪になった「事件」(検察庁の政治的意図によりつくられた事件ならざる事件)をクロにするまで裁判を続けるという執拗な行為は、人権蹂躙もはなはだしく、もはや「狂気」という他はないでしょう。

今朝の東京新聞の社説・【小沢元代表控訴】『一審尊重の制度改正を』は、正鵠を射るものと思いますので、ぜひ、ご覧下さい。「特捜検察が一人の政治家を長期間にわたり追い回し、起訴できなかった異様な事件」であるとし、「検察による不起訴、強制起訴による裁判で無罪なのに、『黒』だと際限なく後追いを続ける制度には手直しが急務である」と結んでいます。

 

武田康弘

 

東京新聞社説

小沢元代表控訴 一審尊重へ制度改正を

 一審無罪の小沢一郎民主党元代表を検察官役の指定弁護士が控訴するのは疑問だ。そもそも検察が起訴を断念した事件だ。一審無罪なら、その判断を尊重するよう検察審査会制度の改正を求めたい。

 新しい検察審制度で、小沢元代表が強制起訴されたのは、市民が「白か黒かを法廷で決着させたい」という結果だった。政治資金規正法違反の罪に問われたものの、一審判決は「故意や共謀は認められない」と判断している。

 つまり、「白」という決着はすでについているわけだ。検察が起訴する場合でも、一審が無罪なら、基本的に控訴すべきではないという考え方が法曹界にある。国家権力が強大な捜査権限をフルに用いて、有罪を証明できないならば、それ以上の権力行使は抑制するべきだという思想からだ。

 とくに小沢元代表の場合は、特捜検察が一人の政治家を長期間にわたり追い回し、起訴できなかった異様な事件である。ゼネコンからの巨額な闇献金を疑ったためだが、不発に終わった。見立て捜査そのものに政治的意図があったと勘繰られてもやむを得ない。

 小沢元代表はこの三年間、政治活動が実質的に制約を受けている。首相の座の可能性もあったことを考えると、本人ばかりでなく、選挙で支持した有権者の期待も踏みにじられたのと同然だ。

 新制度は従来、検察だけが独占していた起訴権限を市民にも広げる意味があり、評価する。だが、新制度ゆえに未整備な部分もある。検察官役の指定弁護士に一任される控訴判断はその典型例だ。検察でさえ、控訴は高検や最高検の上級庁と協議する。

 指定弁護士の独断で、小沢元代表をいつまでも刑事被告人の扱いにしてよいのか。「看過できない事実誤認」を理由とするが、検察審に提出された検察の捜査報告書などは虚偽の事実が記載されたものだ。どんな具体的な材料で一審判決を覆そうというのか。

 むしろ、「白か黒か」を判定した一審判決を尊重し、それを歯止めとする明文規定を設けるべきだ。最高裁も二月に、控訴審は一審の事実認定によほどの不合理がない限り、一審を尊重すべきだとする判断を示している。むろん被告が一審有罪の場合は、控訴するのは当然の権利だ。

 検察による不起訴、強制起訴による裁判で無罪なのに、「黒」だと際限なく後追いを続ける制度には手直しが急務である。

 
 
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