思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ラトルの『ブルックナー交響曲第9番』(4楽章付き)--内的充実の世界に外面的音楽を接ぎ木。

2012-07-07 | 趣味

Symphony No. 9

輸入盤のジャケット・国内盤より音がよいです。

 

ラトルのブルックナーはモダンで艶やかな演奏。過去の「ブルックナー臭い」名演とは異なり、実にチャーミングで色っぽい。うっとりするほどのベルリンフィルの名技にも支えられ、迫力満点。やはり、ラトルは現代最高の指揮者だな、と思います。

ところで、ブルックナーの9番は未完で第3楽章までですが、ラトル盤では第4楽章が演奏されています。以下は、ベルリンフィル・アーカイブのコピーです。

「 ブルックナーは、死の直前までこの作品に携わり、1896年に死去した時には、第4楽章を作曲している途中でした。残されたスケッチを元に完成が試みられ、これまでにも複数の完成版が発表されています。今回使用される「サマーレ、フィリップス、コールス、マッズーカ版」は、そのなかでも最も学究性が高いクリティカル・エディション。4人の音楽学者・作曲家が25年以上の歳月をかけて復元し、2010年にさらに改訂が行なわれました。
『交響曲第9番』は、ブルックナーの辞世の句と言われますが、彼は作品を「愛する神に」捧げました。第1楽章は生からの決別を暗示し、続くスケルツォは不吉な死の踊りを連想させます。第3楽章アダージョは深い憂愁と同時に、破滅的なカタストロフも内包しています。補筆版の終楽章は計647小節に至り、そのうち208小節は、ブルックナーにより完全に作曲されています。これに個々の弦楽パート、管楽器のスケッチが加わりますが、37小節分のみが研究者の純粋な創作です。完成されたスコアは、ブルックナーの偉大さを示す一方で、やや奇異な印象を与えるでしょう。しかしラトルは、次のように語っています。「このフィナーレで奇妙な個所は、すべてブルックナー自身の手によるものです。ここには、彼が当時体験した脅威、恐れ、感情のすべてが現われているのです。 」

しかし、この第四楽章は、第三楽章までの内的な音楽=内側から湧き上がるほんもの迫力とは全く異なり、外面的で少しも面白くありません。聞き続けるのが辛くなります。金管楽器の咆哮もうるさく、わざとらしのです。音楽が少しも心の内に入ってきません。わずかの違いが決定的な相違になる見本のようですが、現代的な虚しさを知るには好都合(笑)で、3楽章までの内的生命力に溢れた音楽と、4楽章の外的価値に幻惑され空疎な音楽との対比は、人間が生きる上でほんとうに必要なものが何かを示しています。その意味でもこの演奏は貴重です。ラトルの名演をもってしても、元がダメならどうにもなりません。

 

武田康弘

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする