思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

みんな一緒病の人には、イジメは止められません。

2012-07-19 | 社会批評

誰であれ、勇気ある生・覚悟を持った人生を歩む人のいうことは、聞かざるをえません。人間&自然愛の精神をもち、断固とした態度で「悪」に臨むことでイジメという極めてオゾマシイ行為は消えますが、そういう言動をとれる人はほんとうに少なくなりました。

自己の目先の利益を中心にすることが当然のような風潮、それに抗して生きる人をバカ者とするような想念は、何も行動しないことを自己弁護する言い訳の哲学=「書物主義」の哲学が生み出したものではないか、とわたしはずっと思ってきました。「言葉」に逃げる行為を正当なものとする手の込んだ言い訳は、ほんとうに始末に悪いものです。

わたしは、他者排除を正当化するリクツ=言説に終始する大学教授たちの態度は、右も左も同じだな~、とつくづく実感しますが(生々しい体験だらけ・笑)、イジメというオゾマシイ行為はどこでも日常化していて、それをみなが許容しています。わたしのように「イジメる者」たちを逆に窮地に追い込む言動をする人間(「煮ても焼いても喰えない」と言われます・笑)は、被害を被害とも思いませんが、組織人や社会的に優位に立てる人間は、【手強い個人】に対しては、徒党を組んで排除するのが習わしです。ソクラテスの刑死はその象徴です。排除することが正しい!

こういう「集団同調主義」が暗黙の思想となっている社会では、集団同調を批判するのも権威に頼ることになります。ますます【裸の個人】として生きる覚悟をもつ人間が少なくなるので、間違いなくイジメというオゾマシイ悪は増え続けていくでしょう。彼らは、自分たちが特定の者をイジメていると自覚することなく日常化させていますので、「事件」にまで発展しなければ、何事もないかのようにずーと続きます。

「人間&自然愛の精神をもち、断固とした態度で『悪』に臨むこと」を、これからもわたしは実践し続けますが、小さな勇気をもち、周りの悪評(笑)に屈せずに生きる人間が一人でも多くなったらいいな、といつも思っています。

まずは、悪を悪として認識できるようになることが必要です。

 

武田康弘

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