音楽の演奏をするにも、
教科の授業をするにも、
大事なことは、
わたしが、自分の中に沈潜して、自分をあらわすことではなく、
わたしは、自分に囚われずに、自分を超えて、普遍性をめがけることです。
普遍性を生み出す努力ーわたしの営みの価値は、そこにあるはずです。
わたしの「自分性=個性」とは、普遍性をめがける行為の中に自ずと現れ出るものであり、
わたしが直接に「自分性=個性」を目がければ、その世界は、閉じたものとなります。
したがって、授業をする者も音楽の演奏者も、ことばの最良の意味でエンターテイナーであることが必要です。演奏者が作曲家に成り替わってはダメですし、授業をする教師は、自分を売る(よく見せる)のではなく、システムに従うのでもなく、相手に内容をよく伝えることに没頭しなくてはなりません。
自分が、自分を、と思うのではなく、
内容を豊かに・魅力的に・分明に示す努力に沈潜すること、それにのみ集中し、自分のことは何も考えないこと、それこそが、却ってわたしの自分性=個性を一番よくあらわすことにもなるはずです。なぜなら普遍性の追求とは、その人の個性を通じてしか行えず、一生懸命にそれを求めると、その人の深いよさが自ずと現れ出るからです。
形式を優先させ、外なる価値に従うのではなく、「内的に、内側から、内発的に」というのは、そういう意味です。自分に固執するのとは逆に、自分の心身を普遍性(=深い納得)に向けて羽ばたかせるのです。それが、「外=他者」を気にするという心から、「内=良心」に従う心への転換をもたらし、深い人生・豊かな心・意味の濃い言動を導きます。
他人を神とする(外なる権威に従う)というわが日本人の生き方の根源的反省=回心が必要です。
マレイ・ペライアのピアノを聴いていると、作曲者のつくった楽曲のよさを読み取りそれを音化しようとする誠実さをひしひしと感じます。自分の個性を売るのではなく、聴いている人に、その曲のよさを伝えるための営為です。言葉の最良の意味でのエンターテイナーであること、それは彼が若いころ親交していたホロビッツから受け継いだのでしょうか。
武田康弘