できるだけ子どもの自由ー自発性を尊重したい、という思想と
子どもの自由はわがままに過ぎないので認めるべきでない、という思想とは、
どちらも等価でしょうか?
自発性を尊重したいという思想は、人間は意識存在だという存在論の原理に合致した考え方ですが、
自発性を認めないという思想は、人間の自然性とは遠く、力による抑え込みの思想です。
これと同じで、社会問題でも市民的自由に基づく政治形態(市民自治)に向かおうとする思想は、自然です。
しかし、市民的自由ではなく国家の伝統に従うことが第一である(国家主義)とする思想は不自然です。
自分の考え方についても同じで、自分の頭でよく考えて納得のいくように生きる、というのは自然ですが、
特定の書物や人物の言葉=思想に従って考え、生きる、というのは不自然です。
不自然な思想を広めるには、絶えず、布教という思想宣伝行為が不可欠になるでしょうが、
自然な生き方は、それを明瞭に説明すればふつうの人は了解できるでしょうから、布教は必要ありません。
ただし、不自然の側が強力に布教=宣伝を進めている場合(いまの安倍派の政治や教育思想などはその一例)は、傍観は出来ず、活発に活動しなければならなくなります。
その場合、不自然に不自然で対抗するのは、それこそ不自然ですから、人間の自由に基づく自然な考え方・生き方の提示と実践が大切、というのがわたしの考えです。特定の主義や宗教に依らずに、わたしは、私のフィロソフィ(等身大の思想)により生きる練習が必要不可欠とおもいます。
ただし、それが無理な人が宗教的信念で生きることは、認められて当然です。しかし、自分の信じる〇〇宗教こそが偉い、というような考え方はとても不味く、不幸と混乱の元です。
「自然性」とい考え方は大事なキーだとおもいます。ありのままを見て、受容し、肯定する「心」がまず何よりも大切で、それがなければ、後は何をどうしようとも、すべて砂上の楼閣に過ぎないはずです。
武田康弘