思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「つまらない顔はイヤ」からはじまったーー武田哲学のルーツと本質。 内田卓志によるインタビュー

2016-01-04 | 恋知(哲学)

インタビューの続きです。

最近は、プラトンを30年ぶりに再読しています。ちょっとですが。納富信留教授の『プラトン―理想国の現在』も読んでみました。さすが納富教授、素晴らしいプラトン論のひとつと拝読しました。

そこで、質問します。プラトンが、『ポリテイア』で主張している「イデア」についてです。この著は、日本では「国家」と訳されていますが、かつては「理想国」と訳されていたようです。

プラトンは、武田先生に最も影響を与えた人ですね。そのプラトンの国家編でプラトンは、イデアについて主張します。イデアは、ある絶対的な超越性を言っていると思います。先生は、超越性原理を批判されますが、その文脈の中での「イデア」について教えてください。 その意味とその役割について。イデアを絶対的な超越と考えると武田哲学とは、相いれないことになるとおもうのですが、如何でしょうか。 

内田卓志

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内田さん、そう、「理想国」なのです。プラト ンは、「ポリティア」の最後に、今まで書いてきたことは紙の上の話である、と明言しています。まさに、紙の上の「理想」であり、思考実験 です。

また、「イデア」を絶対的超越と読むのは、キリスト教を常識とした16世紀に始まる近代の西ヨーロッパ人による読み方です。日本の学者も ずべてそれにならっていますので、同じです。

イデア論は、唯名論として見れば、現代では言語論の常識であり、すんなり理解できるとするのが、わたしの考えで、そのような読みにより武田思想は成立しています。

プラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」とは読めません。「絶対的真理」とは異なる「普遍性の探求」として捉えない と、古代ギリシャのフィロソフィとキリスト教ーー大きく異なる思想を同一のものとする愚を犯してしまいます。

そうなれば、近代の西ヨーロッパのキリスト教化された哲学の見方で、ギリシャのフィロソフィを知ることになるわけです。

なお、わたしとソクラテスの行為(プラトンの著作)との関係についてですが、
ソクラテスを知った後で、わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学 する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。

プラトンの著作を読んで、今のわたしの思想があるのではなく、いまに役立つように使用してきたのです。

プラトンの後期はピタゴラスの神秘思想の影響で難しいものとなっていますが、それについての解釈は別の人に譲ります。わたしの興味の埒外 ですので。


武田康弘

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武田先生

 

『わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。』

先生の発言は、私には誠に羨ましいかぎりです。私には、このような体験が無いので最初は信じられなかったのです。まず本を読んで勉強した後に気づいたり、考えたりして、世界の見かたが変わる。つまり視線が変わることはあります。その上で考えてみて、実行したりします。私は、この繰り返しです。

私が、先生のような思考の訓練をしてこなかったせいなのか。理由は、分かりません。その意味で羨ましいのです。「哲学する営みが先にあり」との発言を信じるしかないのです。理由を少し述べます。

私は、10年以上白樺教育館の仕事を見ていますが、さて学問の研究家に「このような仕事ができるかな」といつも思うのです。教育論のところで詳細を語って頂きましたので、ここでは省略します。

ただ、一人で、40年こつこつと自らの思想に基づく教育活動により、生活を建てていることが凄い。このことは、特に強調しておきたい事実と思います。

私も優れた研究者の方々に接する機会がありました。研究者は文献を正確に読み緻密に解釈して、自らの考えを表現します。「初めに文献ありき」、ということでしょう。文献学的な知のあり方や使い方では、白樺教育館の維持は困難だとわかったのです。どちらが、優れているとかいっているのではなく、白樺の活動を行おうとすれば、そのような文献学的知の使い方は、むいていない、効力が少ないということです。「自分で自分の経験を基に考える」営みから導かれた、フィロソフィーに基づき子供に対峙し交わる。私は、その活動の成果を見ていますので、信じると申し上げるのです。つまり、学問の世界と具体的な経験の生活世界とでは、知のあり方、知の使い方が、異なるということでしょうか。

武田先生の主張するフィロソフィーは、学問ではないので、非学問的な知恵に支えられているのですね。

ーーーー

続けて、

次にプラトンのイデア論のこと、

先生のお立場は、「絶対的超越」と読むべきではない、イデア論は、唯名論として見れば理解できるとのことですね。そのような文脈の上に、武田先生の思想は成立していると理解しました。

プラトンのイデア論は、いまだに議論のあるところで学問的にどう理解すればよいのかは、分かりません。後期プラトン哲学は、先生もご存じの通りイデア論を否定しているとも解釈されます。この問題は、学者におまかせしましょう。

ただ、私もプラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」と理解すべきではないと思います。自らの不知を最も自覚したソクラテスが、絶対的な真理を追い求めるのは、言語矛盾のようにも感じます。それよりソクラテスは、普遍性の地平を探求していたという先生のご解釈のほうが私には、「ピン」ときます。先生は、プラトンいうイデアは、あくまでも「理想」(追い求めても離れていく存在、どこまでも到達できない場所)を語っているので、それを絶対的超越とか超越性原理と考えることはできない、というご主張だと分かりました。

フェイスブック上でも、先生へのインタビューから対話が始まっているようですね。私も楽しみです。

 ※イデア=理想とは厳密には理解すべきでないとか、研究者の間では議論があります。納富教授もそのような見解ですが、結論は結構武田先生のプラトン理解ににも近いと感じます。その他プラトンのことで語りたいことは、つきません。戦前の南原繁の『国家と宗教』でのプラトン理解は、学者の良識の頂点のような勇気ある著作でした。 

内田卓志

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内田さんの実存的レベルの話が入ったので、とても分明で、優れたインタビューになりました。ありがとう!

 
7さいー小学2年生のわたし
 (
撮影は、父)

なんで、皆、つまらない顔をしているんだろう?
楽しそう、とか、嬉しそうではなく、曇った顔をしている。
生き生きしている人は少ししかいなくて、かたい顔、濁った顔が多くて、魅力のある人は少ないな。

小学生のわたしは、学校でも街でも電車の中でも、つまらない顔をしている人が多いのが疑問でしたし、嫌でした。

それが人間の生き方を考える一つのキッカ ケとなりました。

どのように生きるのがよいのか?
何と、どう向き合って生きるのがよいのか?どんな態度で生きるのがよいのか?
楽しく、イキイキと、よろこびの多い生き方、意味の濃い、深く納得できる生き方、それは何か?どう考えればよいのか?

そう思い、悩み、、考え、試して、対話して、という人生は、そのようにして始まったのです。
幼いころから、父への質問は毎日のようでしたし、友人との話も、意味や価値を問う内容で、知らずに、フィロソフィの毎日だった、というわけです。

だから、書物もよく読みましたし、これは、と思う本は、書き込みをしながら熟読しました。中学2年生の時にお小遣いではじめて買ったのがヤスパースの『哲学入門』でしたが、感動しつつも、賛成できないと思うところもありました。

書物は書物としてしっかり読み、わたしが思考する訓練や手助けとしましたが、哲学書が真善美の基準になることはなく、ある考えが、【私の赤裸々な精神= 頭と心身の全体で感じ知る現実】に如何に応答するか、それが基準なのでした。
『聖書』などの宗教書は真面目に読むほどに、その独特の雰囲気=超越的思想に嫌気がさし、わたしの宗教(一神教)嫌いを決定的にしました。イエスその人への評価とは別の話ですが。

 
また、それと同時に、真理とは何か?どの ように考えるのが「正しい」のか?という純哲学的=学的追求も執拗なまでに(笑)行いました。認識論の原理としての現象学です。

簡単ですが、これが、内田さんの最初の質 問へのお応えです。

ーーー

次に、フィロソフィの本質に関わる核心点についてお応えします。

内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをされましたが、大事なことなので、確認します。

ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。

またインドの釈迦の解脱、自帰依ー法帰依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。

近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。

また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。

それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。

 
思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか。思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学の中心・本体ではないでしょうか。

わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。

ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。

思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段としてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。

以上は、核心中の核心(原理中の原理)と思います。

 
武田康弘

 

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政治と神道が直結 恐るべき『神社本庁』の策謀 安倍首相と共謀し「日本国憲法」の全否定へ!!

2016-01-04 | 社会批評

中野耕司さん(長年の教え子のお父様)のfbページで知りましたが、
神社本庁の広報紙「神社新報」は、とんでもない政教一致で、全国民が怒るべきことです。


これは、文字通りの『戦前回帰』ですが、明治政府がつくった「国家神道」(戦後の民主化で完全に否定されたイデオロギー)の再興をめがける驚くべき行為です。
戦前の国体思想の復活を許せば、近代市民社会の民主政は、大元が破壊されてしまいます。日本は、政府と宗教が直結した「宗教国家」に戻ります。

以下のblogより転写。
http://ameblo.jp/et-eo/entry-12104038134.html

神社本庁の広報紙「神社新報」11月23日号


「『今こそ憲法改正を!一万人大会』が十一月十日、
 東京・九段の日本武道館で開催された。
 当日は衆参両院の国会議員や全国の地方議会議員なども含め
 一万一千人以上の改憲運動推進派の人々が参集し、
 憲法改正を求める国民の声を真摯に受け止めて
 すみやかに国会発議をおこなひ、
 国民投票を実施することを各党に要望する決議をおこなった。

 昨年十月一日に『美しい日本の憲法をつくる国民の会』が
 設立されて以来、
 日本会議神道政治連盟が中心となって国民運動を推進してきたが、
 すでに賛同署名は四百四十五万人に達し
 国会議員署名も超党派で四百二十二人を獲得するに至ってゐる。
 これは大きな運動の成果であるが、
 今後なほ一千万の賛同署名の達成と、
 国会議員署名及び地方議会決議の獲得を目指して
 邁進していかねばならない。」

「自由民主党は立党六十年を迎へた。
 …国会の憲法審査会での早期の審議促進を誓ひ、
 立党以来、変はらぬ党是としてきた『現行憲法の自主的改正』を
 再確認し、安倍晋三総裁のもとで必ず憲法改正を実現すること
 決意表明をぜひともおこなってもらひたい。

 先の国会における憲法審査会では、
 こともあらうに自ら選んだ参考人の憲法学者に、
 安保関連法案は憲法違反と言はせる大失態を演じた。
 緊張感の欠如と言はざるを得ない。
 一連の安保法制は何とか成立を見たが、
 これは憲法九条改正までの、
 現在の厳しい国際情勢下における
 いはば緊急避難的措置に過ぎない。
 一方、これに反対してきた市民団体などが、
 『総がかり実行委員会』をつくって『戦争法』の廃止を求め、
 憲法を守る二千万人署名の活動を開始してゐる。
 勢ひを増してきた共産党がこれを応援し、
 同党で半分の一千万人署名を集めると表明してゐるのである。
 来年夏の参議院議員選挙が、
 改憲の大きな勝負時となってくるであらう。」

「現在、憲法改正の秋がやうやく到来した。
 すでに衆議院では改憲派の勢力が三分の二に達してをり、
 安倍総裁の任期も三年ある。
 あとは来年七月の参院選で改憲派の勝利を目指して
 全力を集中することだ。
 参議院で改憲派が三分の二の議席を確保できれば、
 いよいよ国民投票に持ちこめる。


「神社界の中には未だ、
 なぜ神職が憲法改正の署名活動までやらなければならないのか、
 といった疑問を抱く人もゐると聞く。
 しかし、もしも神職が宮守りだけを務め、
 国の大本を正す活動に従事しなかったら、
 この国は一体どうなるのか。
 心して考へてみなければなるまい。
 我々自身の熱意と活動努力によって
 憲法改正はぜひとも実現しなければならないのである。」

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この「一万人大会」のあとは、
「国民の1000万賛同署名」を目指しています。
すでに、445万筆を集めているとは、驚きです。

内閣支持率43%(4ポイント増)
不支持率 37%(6ポイント減)
政党支持率  
自民29%  公明3%  民主7%  大維6%  
共産3%  維新1%  無党派層37%

このように、安倍内閣の支持率が上がっているのも、
なまじ情報操作ではなく、
その背景に宗教団体による信者への呼びかけがあるのでしょう。



******



私たち日本人が、
それぞれの郷土で親しみと有難さを感じ、
七五三のお祝いをし、
お正月には揃って初詣し、
人生の折々で幸福を祈願してお守りを頂く全国の神社。

これを包括する神社本庁が、
改憲を呼びかけているのです。

私たちが、親しみ有難く感じる地域の鎮守の神々とは、
政府が押し付けるような種類のものでしょうか?
私たちが、愛する神々とは、
明治政府が押し付けた国家神道とは無関係です。

日本の神々は、一万年二千年に近い時間の中で
西から北から南から大陸から島々から、
何層にも波状的に渡ってきた、
さまざまな信仰と生活形態をもつ部族集団が
日本列島に住みつき、
長い時を経て、それぞれの神と神が習合し、
神と仏が習合していったものです。(*哲学者・鎌田東二氏の論考を参考に。)

南方熊楠は、このような日本人のスピリチャリテ―を
このように表現しました。

封建制より一層古く国民一般に
 粛敬謹慎の念を心に刻ませているものがある。
 何か。最寄り最寄りの古神社である。
 いわゆる何ごとのあるかは知らねど
 有難さに涙こぼるるのも、これである。


その教えは多大繁雑の斎忌 taboo system をもって成った
 慣習条々(不成分律)を具えているだけで、
 他に何という難しい道義論や心理論はない。
」と。


「日本人の可能性の極限だ(弁:柳田国男)」と言われた
知の巨人熊楠は、
前代未聞のエコロジー思想を説いた
日本で最初のエコロジストでした。
明治政府は記紀神話や官社以外の神々を排滅することによって、
神道の純化を狙いました。
この歪な宗教政策、鎮守の森を破壊する「神社合祀」に
熊楠は、強い危惧を感じ、猛烈な反対運動を行ったのです。

熊野信仰は、古来の自然崇拝に仏教や修験道などが
混交して成り立った土着の宗教です。
高い樹の梢から神が伝って降り樹々に神が宿るという信仰は、
鎮守の森が育む池、水、木、動物、生命の生態系を守る
エコロジーという考え方に叶ったもの。
熊楠は言いました。

それなのに、当国ただ今のように逼迫の世に、
 神道のような不文不典の教えを、
 強いてこの無智、無学、浅見、我利我欲の劣○神機の輩に
 拡張させようとして、
 強いて旧史、地誌、土俗、郷風に大関係のある神社を
 滅却してまでも、その俸給を増やそうとするのは理解できない。


途中投獄をされるも、不退転で神社合祀令が撤回されるまで、
徹底的に闘い抜きました。

****

熊楠のような知恵ある偉人のおかげで、
バカ共が、どれほど荒らし、踏みにじり、乗っ取ろうと、
私たちは、鎮守の森の、そこここに、
放射能の空爆に痛めつけられる私たちの傍らで
共に涙を流し、ひっそりと佇む神々を
透かし見ることができます。

しかし、今また、戦争と支配を好むバカ共が、
私利私欲のために、宗教を利用しようとしています。

神職が、改憲を支援するなら、
もう、絶対に、お賽銭も投げないし、お守りもお札も買わない!

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