思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

フィロソフィの核心=唯名論を了解するには、『ことばと文化』(鈴木孝夫著・岩波新書)が最適です。

2016-01-23 | 恋知(哲学)

フィロソフィとは、人生や物事・事象の意味と価値を問う知的営みですが、わたした ち日本人は、技術的なノウハウや事実情報の取得には長けていますが、どうも意味と価値を問うことが苦手です。

哲学、てつがく テツガクーーなんだか難しい話ですね~~と言われてしまいます。

意味を外して事実だけがある、というのはあり得ない話ですが、その肝心の意味の探求である哲学=フィロソフィが苦手では、残念ながら知的営みは人間的意味と価値を持ちません。

で、フィロソフィとは何か?どのように人生や物事・事象を見るとよいのか、の基盤 を得るためには「唯名論」の理解→了解が不可欠です。

わたしは、フィロソフィの核心を理解→了解するための必読本は、 『ことばと文化』(鈴木孝夫著・岩波新書)だと見ていますので、長年、ソクラテス教室(白樺教育館)で授業に使い続けてきました。これは、いわゆる哲学書ではなく、言語学の基礎を分明に記した本ですが、これほど役立つ「哲学書」(哲学の本質論)はありません。読みやすい本ですが、ゆっくり読まれることをお勧めします。1973年刊ですでに現代の古典です。

難解と言われるプラトンのイデア論(ソクラテス出自)も、唯名論という発想が分かると、「な~るほど」と了解できるはず。

哲学(フィロソフィー=正しい訳語は「恋知」)って、なにより必要で面白~~い、となるでしょう。

実は、怖い話ですが、唯名論の発想をきちんと了解しないままに思想や哲学の本をたくさ~~ん読んでいる人が結構います。大学人にも多いのです。



武田康弘

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マリア・ルス号事件ーー欧米より進んでいた「人権先進国」の日本

2016-01-23 | 社会批評

  かつてわが日本は、人権先進国で、人間愛に満ちていた証拠の一つが、以下の「マリア・ルス号事件」です。
安倍首相以下、いまのなさけない官府の人間は心して知りなさい。また、大学人らのヒドイ嘘=キリスト教などの
一神教がないと、人権や民主政は不可能!?という言説の観念性もよくわかります。


 (注) この風刺画は、マリア・ルス号事件のものではありません。

   以下、友人の泥 憲和(どろ のりかず)さんのfbをご紹介します。泥さんは、元防空ミサイル部隊の自衛官です。2014年の7月にこのブログで泥さんの初街頭演説をシェアしたところ、記録破りの31万件以上(多すぎて正確な数字が表示されない)の「いいね!」を頂きました。読者のみなさまに感謝です。

 

「マリア・ルス号事件」知ってる?
  1872年(明治5年)、横浜港に入港したペルー船"マリア・ルス号"。
  船にはだまされ奴隷として乗せられた清国人が231人もいました。脱走して救助を求めた彼らを救ったのが、外務卿の副島種臣と神奈川県権令の大江卓でした。

 外務省はマリア・ルス号の船長を裁判にかけました。
  ドイツ、オランダ、デンマーク、ポルトガル、イタリアの各国領事は「日本の行為は度を過ぎている。越権行為だ」との意見書を、裁判長を務める大江に送りました。
  黄色いサルが白人に歯向かって奴隷貿易を邪魔するとは!と怒ったのです。

 大江はそんな諸外国の圧力を振切り、有罪判決を下して清国人231人を解放しました。
  その後もアメリカ公使から清国人slaveを船に戻せという圧力を受けましたが、外務卿・副島がはねつけました。

 開国したての大日本帝国は列強と堂々と渡り合って、人道の道に立ち切ったのです。
  すごいでしょ?
  でもこれ、ネトウヨ理論では奴隷解放じゃないんだよね。
  なぜなら判決書には奴隷という言葉が一度も出て来ないから。

 判決は清国人slaveを「拐買」と表現しています。
  さらわれ、買われたという意味です。
  slaveは「拐買」であって奴隷じゃないという、世界のどこに出ても通じない珍論をありがとう。おお恥ずかしい。

 話はもう少し続きます。
  この後すぐ、帝国政府は窮地に立たされます。
  ペルーが反論してきたからです。
  「貴国はslaveを解放すべきだといって清国人slaveを帰国させてしまったが、それなら貴国のslaveも同じように解放しなさい。そうしないなら判決は不公平で間違っていることになるので、われわれのslaveを返しなさい」

 「貴国のslave」とは吉原の娼婦のことでした。人身売買された娼婦を解放しないなら、同じく人身売買で手に入れたペルーのslaveも解放しちゃいけないだろうというのです。
  この正論に直面した帝国政府がとったのは、奴隷解放の立場に立ち切って国内の娼婦を解放する道でした。
  そのために出したのが、人身売買を禁じる太政官布告第295号(芸娼妓解放令)と司法省達第22号でした。
  そこに書いてあったのが「娼妓・芸妓は人身の権利をなくした者であって牛馬と変わりがない(娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス )」という一文です。
  この文言は、まさしく奴隷解放のために書かれたのです。
  奴隷という用語がつくられるより以前の奴隷解放宣言だったのです。

 「拐買」。「牛馬に異ならず」。
  英語のslaveを当時の人たちが知恵を絞って表現した言葉です。
  列強のすさまじい圧力をはねのけながら、貧しく弱小だった帝国日本は正義実現のため、それも清国人の権利のために懸命にがんばったのでした。
  その栄光の言葉を、現代の愛国者さまたちが筆先三寸でくしゃくしゃと丸めてゴミみたいに捨て去ってしまう。
  なんともいやはや、坂の上にかかる一朶の雲を見つめて登って行った明治の青年たちは、140年後の子孫がこんなくそいまいましい連中だと知ったら、草葉の陰で号泣することだろうよ。(泥 憲和)
 


 

 武田康弘

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする