どの国の人間も、人間である限り、「思想=価値観の束」をもっています。それを自覚しているか、いないかの違いはありますが、誰でもが思想をもっています。
憲法を改正するか否か、何を改正するのか、どのように改正するのか。それこそが問題ですが、
それは、背後に必ず、「思想」をもっているのです。
自民党憲法改正案を読めば、天皇元首であり、「個人」という概念=言葉をすべて削除しているのですから、
わたしたち一人ひとりの個人が「感じ・想い・考える」を公共の原理とする民主政治(古代アテナの直接民主政も、近代のロックのピューリタン宗教に基づく民主政も、アテネに範をとり宗教によらない市民主義のルソーの民主政もその点はみな同じ)は、
自民党憲法案の思想とは土台が異なることが明白です。
そういう思想(それを国体思想と呼びます)をよしとするのか、民主政をさらに発展させ、自治政治を広げる方向で憲法を見直すのかでは、まったく正反対の思想です。
安倍首相以下、自民党の閣僚と、多数の自民党議員が戦前のウヨク国体思想の焼き直しである「日本会議」の有力メンバーであるという事実は、実に恐ろしい話ですが、なぜ、このなによりも一番先に問題としなければならない「思想」について検討しないのでしょうか?
あまりの思想音痴にただ呆れるだけです。日本人も人間であり、一人ひとりは「自由と責任」をもつ個人であることは否定できないはずなのに、です。
もう目を覚ましましょうよ、尊王主義を掲げる伊藤博文らが仕掛けた罠(「個人」消去のための滅私奉公=ニッポン全体主義)から解放されないと、いつまでも「人間を幸福にしないシステム」(ウォルフレン)の内部で不幸な生が続きます。また思想は戦前戻りでよいのでしょうか。
武田康弘
(元参議院行政監視委員会調査室・客員ー哲学と「日本国憲法の哲学的土台」を講義)